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6月, 2025の投稿を表示しています

人間というコスト、機械という誠実

今日もまた、無言の店員に出会った。 「こんにちは」と言っても無反応。レジ打ちも無言。袋詰めも無言。 こちらを一瞥すらしない。まるで、私が人間ではなく、空気の塊でもあるかのように。 この数秒で、私は確信した。 この人間に、金を払う意味はあるのか? 人件費という名のコストが、この「無視の時間」に支払われているのだと思うと、馬鹿らしくなる。 挨拶もない。返事もない。ただ立って、流すように商品を処理するだけ。 それで「給料」という名の報酬が与えられる。 客を「人間として扱う」という最も基本的な行為を放棄しているのに。 言葉は悪いが――だったらもう、機械でいい。 機械の方がまだマシだ。 無表情でも、無愛想でも、AIレジは手際がいいし、無礼でもない。 それに対して何も期待していないから、失望もしない。 人間のフリをして、心を込める気もない接客より、はるかに誠実だ。 金の流れが狂っている。 「人」であるだけで給料が発生し、態度はゼロ。 「サービス業」でありながら、サービス精神もゼロ。 それでも雇い続ける企業は、コスト意識が腐っているか、あるいは“顔のある人形”を置いておきたいだけなのか。 思えば、接客の価値って何だったんだろう。 かつては笑顔に金を払っていた。気配りに対価を支払っていた。 でも今は、沈黙に、冷淡に、そして無視に金を払っている。 ふざけるな、と思う。 もし、挨拶も、返事も、視線すらも出し惜しむなら、もうその人間に「時給」は不要だ。 その労働は、“存在する”以外の価値がない。 だったらせめて、人間らしさを演じる機械の方がよほどまっとうだ。 金があるから仕事が生まれる。 でも、人が人である努力を放棄するなら、そこに金を落とす価値はない。 誰かが立ってさえいればいい時代は、もう終わりにしなければならない。 人間は“高い”。 ならばそれに見合った振る舞いをしてくれ。 それができないなら、あなたはただの“高すぎるエラー”だ。

「弱者はもう守らなくていい──加害のマントを羽織る者たちへ」

かつて、“弱者”とは守るべき存在だった。だが今、彼らは“攻撃されてはならない者”という立場を盾に、日常に小さな暴力をばらまいている。 その本質に迫ることを社会は恐れ、メディアは沈黙し、あなたは目を背ける。 もうやめよう。この不自然な同情劇を。 --- 【若者】“バカ”であることの暴力性 彼らは何も知らないふりをして、何も考えずに破壊する。秩序も敬意も常識も、彼らの前では滑稽な“老害の遺物”として鼻で笑われる。 「まだ子どもだから」? 笑わせるな。彼らは“無知を盾に”言葉の暴力を放ち、目の前の人間の人格を安く見積もる。 公共空間でギャアギャアと笑い声を上げるその姿は、もはや“音によるテロ行為”とすら言えるだろう。 彼らは“注意すれば逆ギレする存在”として社会に認知されており、それだけで既に暴力装置と化している。 --- 【老人】“年寄りだから”で済まされる免罪符 老化は罪ではない。しかし、“老いたことを理由に攻撃していい”と思っている者が、あまりに多すぎる。 公共施設で怒鳴り散らす。店員に命令口調。バスの中で独り言。 彼らの常套句は「最近の若いもんは」だ。いや、あなた方こそが社会にとって最も制御不能な“聖域モンスター”である。 しかも社会は彼らに反論を許さない。なぜなら「年寄りに逆らうなんて非人道的」だからだ。 果たして、なぜ“年齢”がそのような道徳的特権を生むのか。 彼らの一部は今や、弱者ではない。「老い」を武器にした“権利の暴走者”である。 --- 【身体障害者(歩行困難者)】「配慮させる」ことで他者を支配する存在 障害を持つこと自体は尊重すべきだ。だが、それは“思いやりを強制する理由”にはならない。 「譲らないあなたが悪い」「手を貸さないあなたが冷たい」──そういった空気が、何も言わずに人を縛る。 そう、彼らの一部は“黙っていても他者をコントロールできる”位置にいる。そしてそれを無意識のうちに利用する。 一部の障害者は、道徳的上位に居座り続けることで、社会に“絶対の沈黙”を要求するようになった。 これは支援ではなく、支配である。 不都合な現実だが、それを直視しなければならない。そうでなければ、「本当に助けが必要な精神疾患の人」までが巻き添えになる。 --- 【結論】 誰かが言わなければならない。「弱者はいつまでも聖人ではいられない」と。 弱さは免罪符ではなく、時...

「かわいそう」という言葉の両義性。模倣という無意識の攻撃性

近年、公共空間や店舗などで、他者の振る舞いや身体的特徴を模倣して見せ物化する行為が散見されます。中には、「かわいそう」「助けてあげたい」という言葉を伴いながらも、実際には本人の意思や尊厳を無視し、周囲への娯楽として消費するという、極めて非倫理的かつ加害的な行為が含まれています。 この文章は、こうした行為が持つ構造的暴力性と、そこに無自覚に加担してしまう可能性への警鐘を鳴らすものです。 「真似」は一見、遊びや親しみの一環と見なされがちです。しかし、特定の人間の所作や声、表情、動作を本人の許可なく再現し、それを他者に向けて演出する行為は、嘲笑・排除・差別の道具になり得ます。 とりわけ、その対象が「見た目」「発話」「動作」に特徴を持つ人々──障害や疾患を抱える方々や、社会的マイノリティである場合、それは人格への直接的な侮辱であり、場合によっては差別的言動に該当します。 「かわいそう」は、時に思いやりの表明である一方で、優越と他者化の表現でもあります。 この言葉を用いた時、「自分は健常であり、あの人とは違う」という無意識の線引きがなされます。 それが行為や模倣と結びついたとき、そこには「私たち」と「あの人たち」という隔たりが生まれます。その隔たりこそが差別の温床であり、社会的排除の入り口です。 こうした行為が問題視されるのは、単に「傷つけるから」ではありません。模倣や見せ物化の行為は、無意識のうちに以下のような偏見と構造的暴力を再生産しています。 弱さや特異性は、笑いの対象にしてよいという認識「普通」である人が、他者の生き方を評価・消費できるという思い上がり。他者の尊厳は、娯楽や話題性の前に軽視してよいという風潮。 それは社会全体にとっても、共感や多様性を損なう重大なリスクです。 模倣行為や「かわいそう」の濫用は、目の前の人だけでなく、あなた自身の人格も問われています。 他者を見下し、嘲笑し、善意の仮面で加害に加担することで、 ・信頼を失い ・人間関係を崩し ・将来の社会的信用を損なう可能性 があります。 また、被害者はそれを一生忘れません。あなたが軽く真似た一つの仕草が、ある人にとっては人生に深く刻まれる侮辱体験となるのです。 今、私たちは「多様性の尊重」と「共生」という言葉を簡単に口にします。だが、それを本当に実現するためには、見えにくい差別の再生産に加担しない態度を一...

問題は存在しないことになっている

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6月の終わり。 強い陽射しがすべてを白く照らしているようで、 実際には、見えない何かの影が、街のいたるところに落ちていた。 子どもの声が響く住宅街。 元気な声は希望の象徴とされるが、その裏で誰かが静かに息を殺していた。 敷地を横切る無邪気さ、笑いながら押し通るベビーカー。 誰も悪くない。でも、誰かの生活は「悪くない人たち」によって押し流されていくことがある。 近隣のあいだには、挨拶のない気配、扉の開け閉め、妙なタイミングの視線。 直接的な言葉も、明確な被害もない。 けれど、何も起きていないはずなのに、疲弊だけが確実に蓄積していく。 それはもう「暮らし」ではない。ただの「耐える日々」になっていく。 病院では、説明の言葉が足りず、声をかけたつもりが責められたように感じさせる瞬間がある。 介護の現場では、制度の正しさが、人を置き去りにすることもある。 行政の窓口では、誰かの不安や緊張が、機械的な対応で簡単に切り捨てられていく。 「冷たくしているつもりはない」という言葉ほど、人を冷やすものはない。 誰かの足音、誰かの沈黙、誰かの“見ているだけ”。 それらは単体では害がないかもしれない。 だが、繰り返され、組み合わさることで、無音の圧力となり、誰かを傷つけていく。 悪意のない群衆が、最も残酷になることは、歴史が何度も示してきた。 ストーカー行為というのは、必ずしもつきまとうだけではない。 ただ“いる”こと、ただ“知っている”こと、ただ“見ている”こと―― その「存在の圧」だけで、人の自由を奪うことはできる。 そして、もっとも傷を深くするのは、助けを求める声が「なかったことにされる瞬間」だ。 気づかなかったわけではない。 気づいていたけれど、関わらなかっただけだ。 その判断が、誰かの人生を折っている可能性に、そろそろ私たちは目を向けなければならない。 嫌がらせは、怒鳴り声だけではない。 無視も、拒絶も、沈黙も、共犯になりうる。 そして、誰もが知らぬうちにその“加担者”になっている可能性がある。 「自分は何もしていないから大丈夫」という言葉ほど、残酷な免罪符はない。 静かな街で、何も起きていないように見えて、 助けを求める声は、たしかにあった。 聞こえなかったのではない。聞こうとしなかったのだ。 それはもはや、誰か一人の問題ではない。 「見えない圧力」を見ようとすること。 「無音...

静かなる共犯者 。無関心と制度のはざまで

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「若害」「老害」「害虫」現象と社会構造 。 孤立と無力感が生む静かな連鎖反応 近年、インターネットや地域社会で頻繁に用いられるようになった「若害」「老害」という言葉は、特定の世代に属する人々の逸脱行動や社会的摩擦を、ある種の“異物”として断罪するレトリックである。また、ネット上の誹謗中傷、痴漢行為、突発的な公共空間での暴力など、匿名性と非社会的行動が結びついた存在は「害虫的」と称され、個人の倫理的欠如として一括りに非難されがちである。 しかし、これらの現象は決して個別の問題ではない。それぞれの逸脱行動の背景には、社会構造の歪みが潜在しており、特に「社会的排除(social exclusion)」「役割喪失(role loss)」「孤立化(social isolation)」といった現代的課題が複雑に絡んでいる。表面的には世代間の断絶や個人の資質に起因するかのように見えるが、実際には「つながりの断絶」と「承認の欠如(lack of recognition)」が静かに連鎖しているのである。 「未熟さ」のラベリングと責任過多の狭間で若者に対してはしばしば「発達的未熟さ(developmental immaturity)」が指摘され、反社会的行動や他者への無関心といった行動が糾弾される。しかし、そこには「試行錯誤を許容する社会的余白」が希薄になっているという構造的問題が存在する。 叱責への耐性が育たず、「社会的インクルージョン(social inclusion)」が機能しないまま、形式的な責任だけが課される現代。結果として、若者の逸脱行動は、不安定な自尊感情(fragile self-esteem)と、自己効力感の低下を背景にした、未成熟な自己主張や社会への抵抗として現れることが多い。 「老害」という偏見と承認欲求の歪曲。一方、「老害」というラベルは、高齢者が自己中心的で時代錯誤だという認識を助長するが、これは「経験知の失効」と「役割剥奪(role deprivation)」の副産物ともいえる。 年功的価値観が失効し、若年世代との価値観の乖離が進む中で、相互理解の断絶(intergenerational communication gap)が拡大している。承認されない孤独のなかで、人はしばしば「自己正当化(self-justification)」という防衛機制を強化し、それ...

記録:沈黙について

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最近、爆破予告や施設などへの攻撃的な事件が続いている。学校、精神科クリニック、地下鉄、電車、老人ホーム、商用施設、公共機関、首相、天皇家の家系。無差別にも見えるが、どれもどこかに“意図”があるように感じられる。それは、目立つ弱者や制度の象徴を“標的”にするという形で現れている。 加害者とされる人間の背景にあるもの。それは、社会の隅に置かれ、長く誰にも見られなかった被害感情の積み重ねだ。行政の制度はある。医療もある。介護も教育も“整っている”ことになっている。だが、いざその恩恵に触れようとすると、想像以上に“遠い”。 申請書類の複雑さ、手続きの煩雑さ、冷たい窓口の対応。それらは、全て仕事をしながら、他の方法も探しながら、家庭を維持しがら、家計を管理しながら、その手続きもしながらだから個人がタスク処理する総数は優に100種類以上を熟す。それも心身が思わしくなく、被災に被害に遭いながら熟していく。食べる暇、寝る暇などなく熟し続けて辿り着く。「制度に守られている」と言われながら、実際には“自力でその制度を探し出し、正確に使える人”だけが助かっている。支援はあるが、支援に辿り着くまでの道がそもそも設計されていない。プロでも素人上がりながら煩雑さに苦慮するのを、素人個人がプロと組織を相手に個人で渡り歩いて行うのだ。心身不調でも並大抵の素人が出来る事ではない。 いっぽうで、富裕層の家庭の子どもたちは、制度を使う以前に“用意された環境”の中で育っている。教育も医療も、あたかも空気のように整っている場所で。その無自覚な優遇を、誰も疑問に思わない。だからこそ、怒りは積もる。 社会は「頑張る人を応援する」と言うが、頑張れる余力がなくなった人に対しては、容赦がない。その結果、支援の場面では、受ける側の人間が「甘えている」「恵まれている」「わがまま」「気持ち悪い」などと断じられていく。 「声を上げる者が悪目立ちする」という構造がある。静かにしていれば攻撃されずに済む。そう信じて沈黙を選び続ける。けれど、その沈黙は、やがて爆発する。爆発することでしか、社会がこちらを見ることはないのだと、誰かが思ってしまったとき それが「事件」になる。 私は観察者でもある。震災や災害渦中前後には制度に助けられた経験もあるし、制度の冷たさに絶望したこともある。医療の現場で、言葉を失っている患者を何人も見た。行政の...

理不尽な死

また、ひとつ理不尽に出会った。 言葉を飲み込んだ瞬間、胸の奥がきゅうと縮んだ気がして、しばらく呼吸が浅くなった。 「なぜ、こんなことがまかり通るのか」 そう問いかけたくなるような場面は、 気を抜けば日々の隙間にこっそり入り込んでくる。 怒りが熱を持つ前に、一歩だけ引いて、目を閉じてみる。耳を塞ぐ。内在的な何かのそれらが「今」を教えてくれる。 理不尽は消えないけれど、それに心を委ねるかどうかは、自分で選べるのかもしれない。 あの人の言葉も、あの場の空気も、 今の私を決める力は持っていない。 お茶をいれて、好きな音楽をかけた。 静かな時間の中に、自分を戻す。 怒りも、悲しみも、どこかへ押しやるのではなく、 そっと隣に座らせて飲み物を飲む。 きっと、それだけでいい。 一日を、また少しでも軽くするために。

親切の境界線は、思ったより遠かった

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偶然ひとつの小さな「事件」に遭遇した。 自転車ごと転倒した子供。誰もいない歩道。友達の姿もなく、親の影も見えない。痛そうにうずくまりながらも泣かないその姿は、むしろ妙に社会的だった。泣くことすら、自己責任のように見えた。 私はしばらく立ち尽くしていた。声をかけるべきか、かけざるべきか。それは一見、倫理の問題に見えて、実際は法とリスクの問題だった。 現代の公共空間における「関与」は、もはや法的曖昧性に包まれた行為である。 たとえば、「不審者情報」 善意で声をかけた人間も、その一報で「不審者」とラベリングされる可能性を孕む。法律そのものがそれを罰しているわけではないが、運用と感情がそれを罰するのだ。 私は知っている。児童福祉法も、刑法も、軽犯罪法も、声をかけること自体を禁じてはいない。だが、通報社会の文化的圧力は、法の外にある恐怖を現前化する。何度となく、その圧力と阻害を受けたからよく分かる恐怖心。 子供に「大丈夫ですか」と声をかけていた。同時にその瞬間、私は無意識に周囲を確認していた。カメラがないか、誰かがこちらを見ていないか、この行動が"記録"されていないか。それはまるで、魔女が薬草を拾うような慎重さだった。 子供は、最初、うまく受け取れなかったようだ。しばらく無言で頷きだけをみせて、怪我をしたパニックで更にうろついた後、こちらに助けを求める表情と空気感を発した。その瞬間を逃さなかった。もう一度だけ恐る恐る、だけど真っすぐに子どもに顔を向けて発した。「大丈夫?」と聞くと子どもは「大丈夫」と言った。だがその言葉は、強がりと見知らぬ大人の他者との接触を拒否する教育の結果に思えた。 教育とは何か?それは本来、他者とどう関わるかを学ぶプロセスであるはずだ。けれど今の教育の多くは、「どう他人を避けるか」「どうリスクを最小限に抑えるか」に傾いている。防犯教育は哲学的に言えば、他者不信の訓練になってしまっている。 私は最低限の介入として、「泥がついているから水で洗った方がいいよ」と言った。それだけでみるみる近づいてきて、子供の顔は、ようやく柔らかく、泣きそうになった。人間的な反応がそこに戻ってきたのだ。私は小さく微笑み、右の頬を撫で指しながら「右の頬に転んだときの泥が付いているから、そこの水道で洗い流したほうがいいよ。」と言った。傷の手...

眠らない夜の静寂に、足音をひとつだけ

午前2時。私は歩いていた。未来の私は、ため息をついていた。 「またこの時間に出たのか。懲りないやつだな」靴の音はひとつ。でも心の中には、少なくとも三人いた。 私の影は、地面でずっと文句を言っていた。「夜道は暗くて冷たいんだ。君は上着を着ているが、私は素っ裸なんだぞ」それでも影は、私を見捨てなかった。なぜなら、そういう契約だからだ。 未来の私は、空から見ていた。月の端っこに腰かけて「この夜の一歩が、5年後に効いてくるんだよ」と、なにか知った風に呟いていた。たぶん嘘だ。 私は歩道の亀裂を避けるように歩いていた。すると影が、わざとそこに落ちる自動販売機が光っていた。「夜の希望」みたいな顔をしていたが、全部冷たい飲み物だった。「人生ってのはそういうもんだ」と、未来の私は言った。「押してみなければ、温かいものがないことに気づかない」 公園のベンチに腰かけると、影が先に座っていた。「やれやれ、ようやく止まったか」未来の私は空で寝息を立て始めた。どうやら飽きたらしい。 私は深呼吸した。 この空気は、今しか吸えない。 夜中の散歩は、未来の自分と影といっしょに、この世界の矛盾を手のひらで転がす時間だ。 当地 29℃/19℃ 晴 降水確率: 10% 降水確率: 10% 湿度: 84% 湿度: 84% 風速: 2 km/h  

子供も老人も救えない時代

 朝、街角にひびいた声が、まるで時代の裂け目のようだった。子供が暴言を発し、老人が唸る。その声には「意味」がなく、ただ「力」として世界を押しのけていた。まるで、社会という建築物の綻びから滲み出すような「暴」。 言葉ではなく音、論理ではなく衝動。 子供の怒りには、未来がない。 老人の怒りには、帰る場所がない。 そのどちらもが、現実に定着できずに浮遊している。  彼らは何かを拒絶しているように見えるが、もしかすると、彼ら自身が社会から拒絶され続けた結果として「過剰な自己防衛のかたち」をして現れているのかもしれない。  幼さと老い。 この社会が最も過保護に扱い、同時に最も真剣に向き合うことを避けている領域だ。その「曖昧な保護」が、彼らを狂わせている可能性を誰が語っただろうか。 怒り、暴言、性的逸脱、強迫的な反復。それは個人の病理か?それとも、集合的な無意識か? 私たちが「扱い方を学ぶことを放棄した存在」が、ついに私たちの前で「社会的ノイズ」となって可視化されたのではないか?  このまま進めば、子供が老い、老人がさらに孤立し、それぞれの中にある「未処理の暴力性」は、より鋭利なかたちで拡大再生産されていく。 未来に向けて問われているのは、抑圧でも放任でもない、第三の接触方法なのだと思う。“年齢”という形式の背後にある、人間の脆さと欲望と破壊性を、構造的に言語化し、制度化し、耐え得るかたちで共に在る方法を探す必要があるのだろう。 けれど私は、ただ怯えていた。見えない未来にではなく、いま目の前の「言葉にならない暴力」に。 当地 現在23℃ 28℃/18℃ 晴 降水確率: 10% 降水確率: 10% 湿度: 67% 湿度: 67% 風速: 6 km/h

体感温度: 23°

 空は嘘みたいに青くて、雲が1ミリも動かない。 部屋の中には、夜の名残みたいな空気がまだ少しだけ残っていた。 私は、それを残したまま、そっと窓を開けた。 風が入ってきた。湿っていて、やわらかい。 土と草と、遠くのどこかで焼かれたパンのにおい。 どれも私の知らない場所からやってきたような気がした。 隣の家の庭で、老人がラジオ体操をしていた。 背中を丸め、腕を上げ、何かを無理やり引っ張り出すような動き。 見てはいけないと思ったのに、目が離せなかった。 老いというものが朝の光の中に晒されていて、 その静かな残酷さに、少しだけ吐き気がした。 公園の向こうでは、子供たちが走っていた。 わめいて、笑って、全身で夏を消費していた。 あの勢いにまきこまれたら、たぶん私は粉々になると思った。 できれば、誰の始まりにも触れたくなかった。 終わりも、始まりも、今日はどちらも見たくなかった。 麦茶はぬるく、パンは焦げ、蝉の声は濁っていた。 でも空だけは、やけに正確だった。 まるで何も知らないふりで、世界を照らしていた。 この世界は今日も、誰に頼まれるでもなく、 老人を老いさせ、子供を走らせ、 私をここに残したまま、夏を続けていく。 それでも、風は少し気をつかってくれた。 頬を撫でていった手つきは、たしかにやさしかった。 当地 28℃/18℃ 降水確率: 10% 降水確率: 10% 湿度: 77% 湿度: 77% 風速: 3 km/h

“見るだけの人”から抜け出す:受動消費から能動選択へ

インターネットが生活に深く根付いた今、自分自身がどのように情報と接し、時間を使っているのかを改めて見直す必要を感じている。 SNSやニュースサイトに加え、ここ数年で特に影響力を増してきたのが動画配信プラットフォームだ。YouTube、Netflix、Twitchなど、無限に近いコンテンツの選択肢が存在し、「何もしなくても時間が埋まる」仕組みが整っている。 1. 時間感覚の麻痺と能動性の低下  配信サイトは、視聴を止める明確な区切りがない設計(自動再生、アルゴリズムによる無限の推薦)になっていることが多く、「観終える」という感覚が曖昧だ。その結果、目的のないまま次々と動画を視聴し、何時間も経過していることがある。これは自発性の低下にもつながりやすい。 2. 情報消費から知的吸収への転換の困難さ 動画は情報の受け取り方としては受動的であり、自分の思考を働かせる余地が少ない。もちろん、学習用のコンテンツもあるが、それらでさえ「見た気になる」だけで終わってしまうことがある。“知った”と“理解した”の間にある深い思考プロセスが省略されやすい。 3. エスケープ手段としての依存性 精神的に疲れた時、現実から逃れるように配信サイトを開いてしまうことがある。それ自体が悪いわけではないが、無自覚に繰り返すと「現実逃避」のパターンが定着し、問題に向き合う力が弱くなる。  対策:配信サイトとの関係性を意識的に選ぶ このような課題に対して、自分なりの向き合い方を以下のように再構築したい。 視聴に目的を持つ:単なる暇つぶしではなく、「なぜ観るのか」「観た後にどう活かすのか」を意識する。 使用目的の明確化:ネットを使う際は、「何のために」「どのくらいの時間使うか」を事前に決める。 タイマー管理:視聴時間に上限を設け、終了時間をあらかじめ決めておく(例:1日1時間、夜8時以降は視聴しない) “能動的視聴”の姿勢を育てる:インプットだけでなく、メモを取ったり、感想を書いたりすることで情報を定着させる。 オフラインの代替習慣を作る:本を読む、手を動かす趣味を取り入れるなど、動画視聴以外で気分転換できる手段を確保する。 インターネットも配信サイトも、否応なく私たちの時間と注意力を奪いに来る。そのことを前提として、「自分が何を選び、何を拒否するのか」という判断の主体を、常に自分の側に取...

心理的安全と人間行動——ある閉鎖空間での観察記録

パンデミック期において、世界はかつてないレベルで「閉鎖性」に晒された。家庭、職場、社会すべてが、外部との接触を制限され、人々は「小さな社会」の中で生きることを余儀なくされた。 このような極限状態において、暴力・抑圧・混乱が起きるリスクは常に存在する。事実、それらはさまざまな場所で観測された。しかし、ある事例においては——閉鎖された空間で協力し、奪わず、個の境界を尊重し合った結果——非常に安定した心理状態と社会的関係が維持されたのだった。 特に興味深かったのは、性別・立場・価値観の違いがあったにもかかわらず、暴力的な衝突や支配関係が生まれなかったという点だ。 暴力や性的侵犯が発生しなかったのは、いくつかの心理的・社会的条件が揃っていたためだと考えられる: 心理的安全性(Psychological Safety)が自然に担保されていた。これは、相手が自分を否定したり攻撃したりしないと感じられる状態で、近年のチーム研究や教育分野でも注目されているキーワードだ。 互いに「他人」であるという適度な距離感が保たれ、親密すぎる関係がもたらす感情的混乱(嫉妬、期待、支配欲)を回避できた。 趣味嗜好や行動パターンの違いが、逆に「重ならない安心感」を生み出していた。 このような状況下において、人は「生存」だけでなく「尊厳」や「精神の安定」も必要とする。 基本的な衣食住は最低限維持されていたが、それだけでは不十分だった。むしろ人間の精神を支えていたのは、言語的・非言語的な信頼、秩序、そして自己決定感だった。 この事例では、強い支配構造や上下関係が存在しなかったことも、心理的な安定に寄与している。もしここに、年齢差・身体的制約・知能や教養・発言力・権力といった不均衡が存在していれば、簡単に秩序は崩壊していたかもしれない。 また、社会全体が閉鎖空間の連鎖のようになっていたこの時期、SNSやインターネットから距離を置くよう助言した識者の存在も、見逃せない。 外的情報の過剰摂取は、恐怖や怒り、不安の連鎖を引き起こしやすい。特に閉鎖的な環境では、自律神経系への影響が顕著に現れることが心理学的にも指摘されている。 そんな中、私は意図的に自分に「観察的実験」を施すことを選んだ。 あえて心の内側を観察し、自分の行動と心理の変化を記録してみたのだ。 それは一種の知的好奇心であり、「安全な範囲内で自分の限界...

誰にも言えない感情たち

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今日は妙に心がざわつく一日だ。 通りすがりの子どもが、悪気もなく放った一言に、 苛立ちが芽生えてしまった。 道をふさぐように立っていたおじいさんに、 「急いでるのに」と、無言の怒りをぶつけそうになった。 そんな自分に嫌気がさす。 なぜ、怒りを感じてしまうのだろう。 たぶん、どこかで「自分は守られなかった」という思いがあるのだろう。 頑張っても報われなかった過去、 誰も気に留めてくれなかった痛み。 子どもや老人が「当然のように」配慮される姿に、 胸の奥で冷たい嫉妬が芽を出す。 それは、誰にも見せられない自分の影だ。 夜、何気なく開いたYouTubeで、 とある配信者が「幸せになる方法」「無駄な努力のやめ方」と題した動画を高飛車な口調で語っていた。 「努力が足りない人は、結局甘えてるだけ」 「夢は叶えようとしない人には価値がない」 まるで他人の人生を見下ろすようなその語りに、 画面越しでも腹が立った。 それでも高評価はついていて、コメントには「さすがです!」「本当に正論」と並んでいた。 正論、なのか? あの人たちが見ていないところで、 どれだけの人が小さく潰れていったのだろう。 正しさは時に、 人を踏みつける凶器になる。 私は、画面を閉じて、 目の前の洗い物を丁寧に片づけた。 それが誰かに届くわけでも、称賛されるわけでもない。 だけど、自分への理不尽さに、自分だけは目を背けずにいたい。 嫉妬してしまう自分も、 怒りを感じる自分も、 誰かの言葉に傷ついた自分も、とても鋭く、そして複雑で繊細な生き物だ。それは、誰かに見せることのない感情かもしれないけれど、たしかに多くの人の胸の中で渦を巻いているものです。 そうした心の重さを静かに受け止め、怒りも、悲しみも、どこかへ押しやるのではなく、そっと隣に座らせて、温かいものを飲む。 現在 19° 体感温度: 20° 曇 降水確率:0% 湿度:81% 風速:3 km/h

眠りの残響を抱えて

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目覚めた瞬間、身体のどこか奥深くに沈殿する重さを感じた。眠ったはずなのに、休息とは別の次元の感覚が残っている。肉体は布団から起き上がっても、精神の輪郭はまだ夢の底に滞留しているようだった。 疲労とは単なる「疲れ」ではない。蓄積された思考の澱(おり)、未消化の感情、身体の内に堆積した情報の残響。それらが静かに、だが確実に、内側から私という存在の輪郭を摩耗させていく。 こういう朝には、焦らず丁寧に、自分を組み立て直すことが必要だ。熱すぎない珈琲を淹れ、静かな音楽を聴く。他人のブログを見る。意味を問うより、言葉の響きに耳を澄ます。それはまるで、霧の中でかすかに灯る灯台のように、ぼんやりとした自分を現実へと導いてくれる。 私たちは、疲れを感じるときほど、思考を深める余白を持てるのかもしれない。速く走るために立ち止まるのではなく、立ち止まるという行為そのものが、すでに一つの運動であると考えることもできる。 今日は、できるだけ静かに、丁寧に、生きようと思う。 晴 降水確率: 10% 降水確率: 10% 湿度: 65% 湿度: 65% 風速: 14 km/h

晴 降水確率:10% 湿度:75% 風速:3 km/h

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今日は朝からとてもいい天気だった。カーテンの隙間から差し込む光で自然と目が覚め、時計を見るとまだ6時過ぎ。少し早起きできたことが嬉しくて、すぐに窓を開けてみた。 外には、涼しい風とともに、鳥のさえずりが聞こえてくる。空は雲ひとつなく澄み渡っていて、まるで絵に描いたような青空だった。こんな朝は、本当に気持ちがいい。 コーヒーを淹れて、ベランダに出て一息。空を見上げながら深呼吸すると、胸の中までスッと晴れていくような感覚があった。今日は何かいいことが起こりそうな、そんな予感がする。 こんなふうに、少し早く起きてゆっくりと朝の時間を過ごすだけで、一日が変わる気がする。これからも、できるだけ朝の静かな時間を大切にしていきたい。

朝の運動

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霧雨がやさしく差し込むころ、運動に出る。心身の損傷部分はまだ痛いが、今日も誰よりもはやく一日を始めている。 町内の皆さんが集まる公園へ向かう道すがら、花々の香りにふと足が止まる。立ち止まったまま空を見上げた。 どうやら今朝は鳥の声が低い場所で鳴いている。昨夜の雨や雷は過ぎたけれども、低気圧がまだ張り詰めている様子。 公園に着くと、ご近所の犬たちはしっぽを振ってご挨拶。私たち人間も、「おはようございます」と笑顔を交わす。 体操が始まると、犬たちにお土産の餌を与える近隣の男性の足元にちょこんと座り、首をかしげながら動きを見上げていた。まるで一緒に体操をしているようで、思わず笑ってしまう。 終わったあと、犬たちは嬉しそうにしっぽを左右にふりながら、ご近所の人々の優しい人々の手のぬくもりを味わっていた。 帰り道、人々の歩みはゆっくりだった。 「お疲れ様です。」「おはようございます。」と軽やかになった心身でご挨拶を交わしながら帰路に着く。 多分、楽しい朝の余韻をまだまとっていたのだろう。 私も同じ。心がふわりとあたたかくて、今日一日を丁寧に生きたくなる、そんな朝だった。

護りの日

朝、目覚めた瞬間から体調の違和感に気づいた。 頭が鈍く重く、喉にかすかな痛み、皮膚の軋み。明確な症状というよりも、「何かがズレている」という感覚が、体のあちこちに微かに点在している。こういうとき、無理をすれば確実に悪化する。よって、今日は"守りの一日"にすることに決めた。 まず、心身の状態を最優先に観察する。深呼吸。窓を開けて、新鮮な空気を吸い込む。曇り空でも、外の空気は部屋の空気よりもずっと新しい気がする。それだけで少し気持ちが軽くなる。水分を摂取し、温かい食事をできる範囲でとる。空腹は免疫の回復を妨げるし、何より脳がまともに働かない。 次に、今日のやるべきことを再構成する。以下の通り、優先度と実施可能性を見極めた 1. 仕事の再調整  進行中のタスクのうち、緊急性のあるもののみを処理。残りは明日以降へ繰り越す。関係者には簡潔に連絡し、現状の説明を共有する。これは自分のためであると同時に、相手への誠意でもある。 2. 思考の空白時間を確保  判断力が落ちている時ほど、情報過多を避けるべきだ。ニュースやSNSを制限し、脳に余白を与える。代わりに、短いエッセイや詩の一篇を読み、思考を静かに保つ。質の高い静寂は、薬にも勝る。 3. 休息を「選ぶ」  ただ横になるのではなく、「回復のために意識的に休む」という姿勢を持つ。昼寝を取るなら15〜20分程度。眠りすぎは逆効果になる。眠ること自体もまた、一つの戦略だと心得る。 4. 夜の締め方を整える  日が暮れたら、あとは回復を第一に。強い照明を避け、画面から離れ、思考を鎮める時間をつくる。入浴と読書で一日を緩やかに締めくくるつもりだ。 今日という一日は、おそらく成果よりも「減らすこと」「休むこと」「保つこと」に意味がある。 前に進むばかりが賢さではない。立ち止まり、整えることもまた、意志ある行動である。

散策写真4

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散策写真3

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  前回に続き散策写真

散策写真2

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前回の続きの構内散策。  

散策写真1

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博物館が休みなので散策。撮影許可得てます。