「弱者はもう守らなくていい──加害のマントを羽織る者たちへ」

かつて、“弱者”とは守るべき存在だった。だが今、彼らは“攻撃されてはならない者”という立場を盾に、日常に小さな暴力をばらまいている。

その本質に迫ることを社会は恐れ、メディアは沈黙し、あなたは目を背ける。

もうやめよう。この不自然な同情劇を。

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【若者】“バカ”であることの暴力性

彼らは何も知らないふりをして、何も考えずに破壊する。秩序も敬意も常識も、彼らの前では滑稽な“老害の遺物”として鼻で笑われる。

「まだ子どもだから」? 笑わせるな。彼らは“無知を盾に”言葉の暴力を放ち、目の前の人間の人格を安く見積もる。

公共空間でギャアギャアと笑い声を上げるその姿は、もはや“音によるテロ行為”とすら言えるだろう。

彼らは“注意すれば逆ギレする存在”として社会に認知されており、それだけで既に暴力装置と化している。

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【老人】“年寄りだから”で済まされる免罪符

老化は罪ではない。しかし、“老いたことを理由に攻撃していい”と思っている者が、あまりに多すぎる。

公共施設で怒鳴り散らす。店員に命令口調。バスの中で独り言。

彼らの常套句は「最近の若いもんは」だ。いや、あなた方こそが社会にとって最も制御不能な“聖域モンスター”である。

しかも社会は彼らに反論を許さない。なぜなら「年寄りに逆らうなんて非人道的」だからだ。

果たして、なぜ“年齢”がそのような道徳的特権を生むのか。

彼らの一部は今や、弱者ではない。「老い」を武器にした“権利の暴走者”である。

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【身体障害者(歩行困難者)】「配慮させる」ことで他者を支配する存在

障害を持つこと自体は尊重すべきだ。だが、それは“思いやりを強制する理由”にはならない。

「譲らないあなたが悪い」「手を貸さないあなたが冷たい」──そういった空気が、何も言わずに人を縛る。

そう、彼らの一部は“黙っていても他者をコントロールできる”位置にいる。そしてそれを無意識のうちに利用する。

一部の障害者は、道徳的上位に居座り続けることで、社会に“絶対の沈黙”を要求するようになった。

これは支援ではなく、支配である。

不都合な現実だが、それを直視しなければならない。そうでなければ、「本当に助けが必要な精神疾患の人」までが巻き添えになる。

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【結論】

誰かが言わなければならない。「弱者はいつまでも聖人ではいられない」と。

弱さは免罪符ではなく、時にもっとも残酷な力となる。

加害性は“強者”のみにあるわけではない。無自覚の甘えと、制度に守られた怠慢と、道徳を逆用する冷たさ

それらこそが、今日の静かな暴力を生み出している。

そしてこの暴力は、社会全体の麻痺と沈黙によって強化されている。

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もう守らなくていい。

その仮面の裏にある“鈍い悪意”を、言葉にしよう。

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