有能と無能と言う無能に気づかない人々
今日は、自分ではなく他人が「有能」と「無能」を語っているのを見かけた。 誰かを評して「あの人は有能だ」「あいつは無能だ」と、ずいぶん簡単に言い切っていた。根拠らしきものも一応挙げてはいたけれど、その多くは断片的で、その場の印象や好き嫌いに強く引っ張られているように見えた。 それを見ていて、少し前までの自分を外から眺めているような気分になった。 当人たちは分析しているつもりなのだろう。でも実際には、「有能/無能」というラベルを先に置いて、それに合う材料だけを拾い集めているように見える。いわば結論ありきの整理だ。だから話は一見まとまっているのに、どこか空虚で、広がりがない。 そして、その場にいる他の人たちも、なんとなくそのラベルに引きずられていく。誰かが「有能」と言えば、良いエピソードが追加され、「無能」と言えば、失敗談ばかりが強調される。評価というより、空気の形成に近い。 俯瞰してみると、この構図は思った以上に単純だった。 複雑な人間や状況を、二つの箱に押し込めて、分かった気になる。その過程でこぼれ落ちるものの多さには、あまり意識が向かない。 たぶんこれは、効率のいい理解の“ふり”なんだと思う。 短い言葉で世界を整理できた気になるし、会話も回しやすい。でも、その理解はほとんど使い物にならない。具体的な行動にも、建設的な改善にもつながらないからだ。 少し距離を置いて見ていると、「有能か無能か」という問いそのものが、観察よりもラベリングに重心があることがよく分かる。 だから、あの場に混ざって同じ言葉を使うこともできたけれど、今日はやめておいた。 代わりに、「この人はどんな条件だと上手くいくのか」とか、「何が噛み合っていないのか」とか、もう少し解像度の高い見方を意識してみる。 うまく言語化はできていないけれど、少なくとも二つの箱だけで人を片付けるよりは、少しだけましな見え方をしている気がする。 この感覚は、忘れないようにしておきたい。