子供も老人も救えない時代
朝、街角にひびいた声が、まるで時代の裂け目のようだった。子供が暴言を発し、老人が唸る。その声には「意味」がなく、ただ「力」として世界を押しのけていた。まるで、社会という建築物の綻びから滲み出すような「暴」。
言葉ではなく音、論理ではなく衝動。
子供の怒りには、未来がない。
老人の怒りには、帰る場所がない。
そのどちらもが、現実に定着できずに浮遊している。
彼らは何かを拒絶しているように見えるが、もしかすると、彼ら自身が社会から拒絶され続けた結果として「過剰な自己防衛のかたち」をして現れているのかもしれない。
幼さと老い。
この社会が最も過保護に扱い、同時に最も真剣に向き合うことを避けている領域だ。その「曖昧な保護」が、彼らを狂わせている可能性を誰が語っただろうか。
怒り、暴言、性的逸脱、強迫的な反復。それは個人の病理か?それとも、集合的な無意識か?
私たちが「扱い方を学ぶことを放棄した存在」が、ついに私たちの前で「社会的ノイズ」となって可視化されたのではないか?
このまま進めば、子供が老い、老人がさらに孤立し、それぞれの中にある「未処理の暴力性」は、より鋭利なかたちで拡大再生産されていく。
未来に向けて問われているのは、抑圧でも放任でもない、第三の接触方法なのだと思う。“年齢”という形式の背後にある、人間の脆さと欲望と破壊性を、構造的に言語化し、制度化し、耐え得るかたちで共に在る方法を探す必要があるのだろう。
けれど私は、ただ怯えていた。見えない未来にではなく、いま目の前の「言葉にならない暴力」に。
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