静かなる共犯者 。無関心と制度のはざまで
近年、インターネットや地域社会で頻繁に用いられるようになった「若害」「老害」という言葉は、特定の世代に属する人々の逸脱行動や社会的摩擦を、ある種の“異物”として断罪するレトリックである。また、ネット上の誹謗中傷、痴漢行為、突発的な公共空間での暴力など、匿名性と非社会的行動が結びついた存在は「害虫的」と称され、個人の倫理的欠如として一括りに非難されがちである。
しかし、これらの現象は決して個別の問題ではない。それぞれの逸脱行動の背景には、社会構造の歪みが潜在しており、特に「社会的排除(social exclusion)」「役割喪失(role loss)」「孤立化(social isolation)」といった現代的課題が複雑に絡んでいる。表面的には世代間の断絶や個人の資質に起因するかのように見えるが、実際には「つながりの断絶」と「承認の欠如(lack of recognition)」が静かに連鎖しているのである。
「未熟さ」のラベリングと責任過多の狭間で若者に対してはしばしば「発達的未熟さ(developmental immaturity)」が指摘され、反社会的行動や他者への無関心といった行動が糾弾される。しかし、そこには「試行錯誤を許容する社会的余白」が希薄になっているという構造的問題が存在する。
叱責への耐性が育たず、「社会的インクルージョン(social inclusion)」が機能しないまま、形式的な責任だけが課される現代。結果として、若者の逸脱行動は、不安定な自尊感情(fragile self-esteem)と、自己効力感の低下を背景にした、未成熟な自己主張や社会への抵抗として現れることが多い。
「老害」という偏見と承認欲求の歪曲。一方、「老害」というラベルは、高齢者が自己中心的で時代錯誤だという認識を助長するが、これは「経験知の失効」と「役割剥奪(role deprivation)」の副産物ともいえる。
年功的価値観が失効し、若年世代との価値観の乖離が進む中で、相互理解の断絶(intergenerational communication gap)が拡大している。承認されない孤独のなかで、人はしばしば「自己正当化(self-justification)」という防衛機制を強化し、それが結果として強権的な態度や他者への攻撃となって表出する。
“害虫的”存在:制度的周縁に追いやられた者たち。ネット上の誹謗中傷、公共空間での加害行為、性犯罪などの逸脱行動も、単なるモラルハザードではなく、「制度的排除(institutional exclusion)」と「福祉的空白(welfare gap)」が生んだ帰結として捉える必要がある。
これらはしばしば、「社会的支援から脱落した人々のサイレント・クライ(silent cry)」であり、病理化や犯罪化することで片付けるのではなく、その背景にある社会的リスク因子(social risk factors)貧困、孤立、トラウマに目を向ける必要がある。
「見えない空白」と中間世代の潜在的危機。忘れられがちな存在が、40〜60代のいわゆる「おじさん・おばさん」世代である。彼らは家庭や職場において一定の役割を果たしてきたが、子育てやキャリアの節目を過ぎると、「機能的役割の喪失(functional role loss)」に直面する。
この世代は外見上「安定している」とされがちだが、ケア責任(care burden)や感情労働(emotional labor)、性別役割の固定観念に縛られた中で、「中年の空白(midlife void)」を抱えている。とくにジェンダーロールが固定された社会では、男性の「感情表出の抑圧(emotional suppression)」、女性の「持続的奉仕役割」への強制が、メンタルヘルスの悪化や孤立を促進する。
この未可視化された疲労や迷いが、「中年の病理(midlife pathology)」として、ハラスメントや過剰な権威志向、または無関心として表出する危険を孕んでいる。
問うべきは「なぜ」
以上のように、「害」とされる行動や存在の多くは、社会的連携の希薄化、制度的支援の欠如、承認の不足といった社会的ディスコンフォート(social discomfort)の中で醸成されている。
重要なのは、「誰が悪いか」ではなく、「なぜそのような行動に至ったのか」という問いを持つことである。若者には「リスクを取れる環境」、高齢者には「経験知を再評価する場」、中年層には「再定義の機会と対話空間」が求められる。
世代間の断絶を克服する鍵は、「支援と承認の循環(circulation of support and recognition)」にある。すべての世代が再び“つながり直す”社会的契機を得ることで、「害」は“担い手”へと反転する可能性を持つ。
すべての人が「その予備軍」でもある。
「害」は常に他者の問題ではない。誰しもが、環境と文脈次第でその当事者となる。そして逆に、理解と共感のまなざしを持てば、誰もが“社会の再構築に関わる主体”となりうる。その分岐点は、制度ではなく、私たちの日々の関与とまなざしにこそ存在する。