問題は存在しないことになっている
6月の終わり。
強い陽射しがすべてを白く照らしているようで、
実際には、見えない何かの影が、街のいたるところに落ちていた。
子どもの声が響く住宅街。
元気な声は希望の象徴とされるが、その裏で誰かが静かに息を殺していた。
敷地を横切る無邪気さ、笑いながら押し通るベビーカー。
誰も悪くない。でも、誰かの生活は「悪くない人たち」によって押し流されていくことがある。
近隣のあいだには、挨拶のない気配、扉の開け閉め、妙なタイミングの視線。
直接的な言葉も、明確な被害もない。
けれど、何も起きていないはずなのに、疲弊だけが確実に蓄積していく。
それはもう「暮らし」ではない。ただの「耐える日々」になっていく。
病院では、説明の言葉が足りず、声をかけたつもりが責められたように感じさせる瞬間がある。
介護の現場では、制度の正しさが、人を置き去りにすることもある。
行政の窓口では、誰かの不安や緊張が、機械的な対応で簡単に切り捨てられていく。
「冷たくしているつもりはない」という言葉ほど、人を冷やすものはない。
誰かの足音、誰かの沈黙、誰かの“見ているだけ”。
それらは単体では害がないかもしれない。
だが、繰り返され、組み合わさることで、無音の圧力となり、誰かを傷つけていく。
悪意のない群衆が、最も残酷になることは、歴史が何度も示してきた。
ストーカー行為というのは、必ずしもつきまとうだけではない。
ただ“いる”こと、ただ“知っている”こと、ただ“見ている”こと――
その「存在の圧」だけで、人の自由を奪うことはできる。
そして、もっとも傷を深くするのは、助けを求める声が「なかったことにされる瞬間」だ。
気づかなかったわけではない。
気づいていたけれど、関わらなかっただけだ。
その判断が、誰かの人生を折っている可能性に、そろそろ私たちは目を向けなければならない。
嫌がらせは、怒鳴り声だけではない。
無視も、拒絶も、沈黙も、共犯になりうる。
そして、誰もが知らぬうちにその“加担者”になっている可能性がある。
「自分は何もしていないから大丈夫」という言葉ほど、残酷な免罪符はない。
静かな街で、何も起きていないように見えて、
助けを求める声は、たしかにあった。
聞こえなかったのではない。聞こうとしなかったのだ。
それはもはや、誰か一人の問題ではない。
「見えない圧力」を見ようとすること。
「無音の加害」に気づこうとすること。
それがなければ、
この街に来年の春は、二度と来ないかもしれない。