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年末のご挨拶

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 今年ももうすぐ終わります。 振り返れば、完全に支えのない状況の中で、私たち素人や傷病者もできる限りのことをやってきました。小さな努力でも、現場で役立つことがあればと思い、精一杯関わってきた自分を少し誇りに思います。 しかし現実は、支えや体制が全く整っていないため、現場の安全性や業務の精度に影響が出ていることも否めません。専門職の皆さんを本当に支えているのは、私たちではなく、整った制度や倫理に沿った体制です。 来年は、この現状を改善し、精度や安全性が確保された環境を回復させることが急務だと感じています。行政や公的機関の体制整備も含め、皆が安心して働ける仕組みを作ることが、責任でもあります。 辛辣に聞こえるかもしれませんが、それも皆さんへの敬意と期待の表れです。 どうぞ体に気をつけて、良い年末年始をお迎えくださ

心が軽くなる日

久しぶりに、人の多い一日だった。 仕事は長い間一人でデータ関連、医療福祉教育行政関連、サポート関連に関わるものをやっていて、何年も人と直接関わることがほぼなかった。それが特別つらいとも思っていなかった。 ライブハウスに行った。音は大きく、人は多かった。照明の中で、ステージに立つ人たちは淡く輝いて見えた。周囲には知らない人ばかりで、会話はほとんどなかったが、同じ場所にいるという事実だけは共有されていた。 そのあと喫茶店に入った。 何気ない会話がいくつか聞こえてきた。毒も薬もない、意味を持たないようなやり取りだった。誰かを傷つけることも、持ち上げることもない。ただ時間を埋めるための言葉だった。 店員の対応も含めて、全体的に角のない空間だった。優しい世界というほど大きな話ではないが、少なくとも、警戒する必要はなかった。 帰る頃には、頭の中が少し軽くなっていた。 大人数の中にいたことと、何気ない会話に囲まれていたことが、結果的にストレス解消になっていたのだと思う。 それだけの一日だった。 しばらく忘れていた呼吸を、思い出したような気がした。

夜の回游

仕事終わりの夜、ふと思い立って散歩がしたくなり、電車に乗った。 最近は忙しさが続いていて、移動中は爆睡しては目を覚まし、また眠る、を繰り返している。寝起きと寝しなの機嫌の悪さには自覚がある。かつて、人の腕を噛んだことがあるほどには一級品だ。 普段は耐えて、我慢して、なるべく大人しく振る舞っている。そのせいか、限界を超えて振り切れた瞬間、私は地雷になる。一度火がつくと、もう誰にも止められない。ただし、不思議なことに、良い方向へ転んだときは、どこまでも良くなれる。 この一週間は、気圧の変化と地震のフラッシュバックにやられて、体調が思わしくなかった。 だから意識的に、食事、睡眠、清潔、そしてほんのわずかな運動。生きるための基本だけを、黙々と繰り返した。 地震があった夜は、さすがに現実的な行動に出た。 山賊のようなリュックを引っ張り出し、冷蔵庫の薬品庫からオキシドール、三角巾、ホカロン、カットバン、充電器、着替え、災害用ライト、バランス栄養食、水分、衛生用品。思いつく限りを詰め込んだ。 結果、 「あかん。背負えない。重い(笑)」 備えは大事だが、体力には限界がある。 そこで、Yahooショッピングの最大23%還元のタイミングを狙い、安いキャリーバッグを購入した。生き延びる準備は、気合だけではどうにもならない。 無理なく動ける形に整えることもまた、大人のサバイバルなのだと思う。

無関心の国で、声は消える

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地震後、近隣で火災があった。それも、複数件。火が消えた夜、私はなぜか眠れなかった。焦げた匂いがまだ空気のどこかに残っていて、身体のどこか深いところがずっと微弱な警報を鳴らしていた。周りは「もう大丈夫」と言い切るような雰囲気で、なんなら普段より落ち着いていた。でも私は、どう考えても そんなわけがないとしか思えなかった。 人は、安心したいときほど現実を見なくなる。それが今回の地域の弱点だった。 家の中でじっとしていても、外の変化が気になった。歩く音、誰かが立ち止まる音、遠くで閉まるドアの重さ。普段なら気にも留めない音のひとつひとつが、微妙にずれて聞こえる。焦げの匂いの奥に、普段は感じない金属っぽい匂い。風の流れに、わずかに混じるよそ者の気配。こういうのは“説明できない感覚”だ。だけど私は、この手の違和感が外れたことはほとんどない。災害の直後というのは、環境が狂っている。だから、普段の感覚がよく働く人ほど、早く気付いてしまう。 実は、私は様々な実力や能力を買われて、何の資格も無くても、実績実力のみで半民半官で北海道胆振東部地震時にガチガチの理系職員の中で、データ班として呼ばれ市役所職員や研究職員を務めていた。他にも、消防団員として、特別職地方公務員としても兼業しながら、10年近く就いていたこともある。女性で私の状態からは稀すぎるくらいで、稀な年齢の若さの時だ。勿論、当時は単なる受付、単なるアルバイトといい、公務であることは何年も伏せていた。ほぼ、若い時から全国点々と。 ■ 周りに声をかけてみた 「火事です」「玄関、閉めたほうがいいですよ」「さっき、不審な男性がいたので気をつけてください」 それだけだ。ただ思ったことをそのまま伝えただけ。ところがその瞬間、相手の表情が一瞬固まる。 “え、あなたが言うの?” そんな空気だった。 つまり、私は普段から、そこまで“意見として扱われていない”ということだ。そしてそのこと自体が、今回の地域の危機の本質だった。 ■ 実際、一番動いたのは誰だったのか 火災直後の片付けでも、連絡でも、状況確認でも、一番動いていたのは、いわゆる「心が弱い側」に分類される人たちだった。または、様々な心や体や生活に困難を抱える人。普段は静かに目立たず生活している人。周囲が勝手に“守られる側”と決めつけている人。そういう人が、今回は一番冷静で、一番早く、一番正確に...

少しずつ、軽くなる日

午後の柔らかい光が、机の上に差し込む。パソコンの前に座り、指をそっと置く。 3年近くだろうか。YouTube に積み重ねた動画は、400 本近くになっていた。どれも派手ではなく、自分自身は一つも写っていないが200回〜5,000回以上のも上げた途端に回る再生数。朝のコーヒーを淹れながら思いついたこと、散歩の途中でふと感じたこと、眠れない夜や朝に静かに上げていた動画。日々の生活の小さな息づかいが、映像に刻まれていた。 静かに決めた。 「もう手放してもいいかな」と。 それらは消えたけれど、まるで息を吐くように、やわらかく、静かに解けていく。すべて消し終えた画面は、真っ白で広い。そこに感じるのは、寂しさではなく、深呼吸できる余白。窓から入る光の温度と、部屋の静けさが、ちょうど心の中の空間と重なる。 そして数日後。 また少しだけ動画をアップロードし始めた。まだ数は少ない。でもそれでいい。 コーヒーを淹れるときの香りに気づくように、窓の外の風に手を伸ばすように、 必要な分だけ、必要なタイミングで、少しずつ。 手放したからこそ、余白ができた。 余白ができたからこそ、また小さな光が置ける。アップロード完了の通知がそっと光る。その光は、生活の中にある小さな息づかいのように、「ゆっくりでいいよ」と教えてくれる。 終わりではなく、日々を取り戻す、静かで優しく、温かな再生。ブログのYouTubeリンクが途切れているのは、そういう事情で恐縮です。たまには、過去のを上げるかもしれない。それは、どこに上げるかは分からないけど、過去は至る所に優しく散りばめらている。

小動物と目が合う

  帰りに、アパートの前を通りすがったときのこと。 「ドンッ!」という音がして、思わず振り向いた。 見ると、通りすがりのアパートのドアに小動物が正面衝突していた。 アライグマ? たぬき? その中間みたいなふわふわ生物。 一瞬ぐらっとして、こっちを見上げてきた。 目が合う。 「えっ、見られた?」みたいな顔。 こっちも「いや、こっちもびっくりだよ」って顔。 3秒ほどの沈黙のあと、その子は慌てて道路へ猛ダッシュ! しっぽをぶんぶん振りながら、斜めにジグザグに逃げていった。 交通ルールとか気にしないタイプらしい。 ほんの一瞬の出来事だったけど、クスッと笑った瞬間だった

弱さが演じられる社会 ― 不審という名の構造

Ⅰ.序論:不審の風景 駅前の通りで、杖を突く男性がゆっくりと歩いていた。 彼は「譲られる側」であることを知っており、その歩みに一種の誇りが宿っていた。 周囲の人々は自然に道を空ける。 だがその表情には、どこか「支配する弱さ」があった。 少し離れた場所では、若い学生がスマートフォンを掲げ、ライブ配信をしていた。 画面の向こうには視聴者がいる。 だがその視線は、現実の他者を無視して進む。 映り込む通行人、背景として消費される街。 さらに奥では、高齢の親子が言い争っていた。 「もう帰るって言ったでしょ」「あんたが黙って歩くから!」 通行人は見ぬふりをしながら、心のどこかで「不審な光景だ」と呟く。 しかし本当に不審なのは誰なのか。 奇妙に見えるのは、人ではなく、社会のまなざしそのものではないだろうか。 --- Ⅱ.弱者性の転化 ― 「譲られる権利」の社会心理 足の悪い人の強引さは、単なる頑固さではない。 それは、長く「譲られる側」として生きてきた経験の裏返しである。 社会が弱者に向ける優しさは、時に「受け身の役割」を強制する。 その構造が続くと、人は無意識のうちに「譲られることを当然」と感じ、 他者に譲らせる側へと立場を反転させる。 エルヴィング・ゴフマン(1963)が指摘したように、 スティグマ(烙印)を負う者は、それを「管理」するために、 社会的役割の演技を学習する。 弱者が“強さ”を演じるのは、社会に生かされるための戦略でもある。 それは道徳的批判ではなく、構造的必然として理解されるべきだ。 --- Ⅲ.配信社会と可視化の暴力 現代の街は、カメラによって分断されている。 配信者は、公共空間を「私的な舞台」として再構成し、 他者の存在を「映像素材」として扱う。 ここではもはや、「公共」と「私的」の区別は崩壊している。 ショシャナ・ズボフ(2019)の言う「監視資本主義」の時代、 人々の行動はデータ化され、可視性が価値に変わる。 その構造の中で、若者たちは「見られること」で存在を確かめ、 他人を映すことで自己の現実感を保とうとする。 それは一種の可視化の暴力であり、 他者の匿名性を奪うと同時に、配信者自身も「視線の檻」に閉じ込めていく。 --- Ⅳ.高齢者・親子・日常の演出化 後期高齢者や親子の衝突もまた、同じ構造の中にある。 声を荒げる行為は、怒りの発露ではなく、 「無...