無関心の国で、声は消える


地震後、近隣で火災があった。それも、複数件。火が消えた夜、私はなぜか眠れなかった。焦げた匂いがまだ空気のどこかに残っていて、身体のどこか深いところがずっと微弱な警報を鳴らしていた。周りは「もう大丈夫」と言い切るような雰囲気で、なんなら普段より落ち着いていた。でも私は、どう考えても そんなわけがないとしか思えなかった。

人は、安心したいときほど現実を見なくなる。それが今回の地域の弱点だった。

家の中でじっとしていても、外の変化が気になった。歩く音、誰かが立ち止まる音、遠くで閉まるドアの重さ。普段なら気にも留めない音のひとつひとつが、微妙にずれて聞こえる。焦げの匂いの奥に、普段は感じない金属っぽい匂い。風の流れに、わずかに混じるよそ者の気配。こういうのは“説明できない感覚”だ。だけど私は、この手の違和感が外れたことはほとんどない。災害の直後というのは、環境が狂っている。だから、普段の感覚がよく働く人ほど、早く気付いてしまう。

実は、私は心身に負担を抱えながらも、健康優良児として、民間人として様々な実力や能力を買われて、何の資格も無くても、実績実力のみで北海道胆振東部地震時にガチガチの理系職員の中で、データ班として呼ばれ市役所職員や研究職員を務めていた。他にも、消防団員として、特別職地方公務員としても兼業しながら、10年近く就いていたこともある。女性で私の状態からは稀すぎるくらいで、稀な年齢の若さの時だ。勿論、当時は単なる受付、単なるアルバイトといい、公務であることは何年も伏せていた。ほぼ、若い時から全国点々と。

■ 周りに声をかけてみた

「火事です」「玄関、閉めたほうがいいですよ」「さっき、暴力的でプライドの高いテイカー気質の優生思想の高所得層、不審な若者、危ない高齢者、頭のイカれたテイカー気質の身体障害、知的障害、発達障害、内部障害、危険な親子、怪しい店員、メンタルヘイトスピーチをして与えず奪うだけの付添たちや異常なそれらの取巻き、迷惑系、炎上系、暴露系YouTuberや配信業、その妄信者、信者らがいたので気をつけてください」

それだけだ。ただ思ったことをそのまま伝えただけ。ところがその瞬間、相手の表情が一瞬固まる。

“え、あなたが言うの?”

そんな空気だった。

つまり、私は普段から、そこまで“意見として扱われていない”ということだ。そしてそのこと自体が、今回の地域の危機の本質だった。

■ 実際、一番動いたのは誰だったのか

火災直後の片付けでも、連絡でも、状況確認でも、一番動いていたのは、いわゆる「心が弱い側」に分類される人たちだった。または、様々な心や体や生活に困難を抱える人。普段は静かに目立たず生活している人。周囲が勝手に“守られる側”と決めつけている人。そういう人が、今回は一番冷静で、一番早く、一番正確に状況を読んでいた。反対に、肩書きがある人。立場や地位がある人。自信だけは強い人。「自分は大丈夫」と思い込む地域住民。そういう人ほど保身に走り、必要不可欠な側の方に対して動けなかった。傍観して嘲笑した。私はそれを間近で見た。災害のあと、ただその人の“感性”と“現実を直視する力”だけが残る。そこで本当に動ける人が、守る。ただ、耳を澄まし、空気を察知し、違和感を拾っただけ。それがたまたま“役に立ってしまった”だけだ。

でも、心の中ではこう思った。

「最初から軽く見ないでほしかった」

この一言に尽きる。

今回の火災や人災でわかったことは、強いとされてきた人は、思い込みに守られていただけで、弱いとされてきた人こそ、現実を見ていた。災害は、誰が本当に地域を支えているのかを暴く。そして、多くの場合それは、社会が“弱い”とラベルを貼った人だ。思い込みを捨てる。偏見を手放す。それができない限り、地域はまた同じ失敗を繰り返す。

大規模災害時はいつもそうだ。私は、そのことを忘れないために、何度となく経験した。何度でも書き残しておく。私はこの日記を、自分のために書く。そして同じ過ちを繰り返す偉い愚民や地域のためにも書く。

無関心は火より速く人を殺す。火災より怖いのは、住民の“見なかったことにする力”だ。肩書きは燃えない。だが責任は焼け残る。災害後、最も動いたのは“心優しき弱者”だった。それがこの地域の現実。地域の“本当の強さ”は社会が弱いと決めつけた人の中にあった。専門家信仰が人命を遠ざけた。公的機関や人間の冷酷さは災害よりも静かに人を削る。誰もが正しいと思っていた人ほど、間違っていた。

精神的困難を抱える者ほど、環境変化に敏感なのは脳科学的に説明がつく。ノイズを拾いやすい脳は、災害後には“有利”に働くこともある。

『心優しき弱い人が動いた』とき、地域は本当の姿を見せる。専門家・行政・住民の“安全な無責任”を暴いた。見捨てられたのに、感謝しろと言われ、弱者扱いされてる人のほうが、よっぽど強い現実が残り、誰も信用してないから、何度とない大規模災害渦中前後や人災も対処し続け生き残れた。

無視は、火より静かに人を焼く。思い込み、先入観、精神的、困窮ヘイトは、最も人を傷つける暴力だ。「心優しき弱者」と見なされた人の感性が、地域を守った。

「奪うだけの保身に走る強者」と思い込んでいた側の無関心が、地域を危険にした。

専門家と行政信仰が、判断を遅らせた。一番動かないのは、責任を押し付けられない立場の人。生活に余裕がある人。影響が来にくい高所得層。人に指示することに慣れた肩書き層。彼らは火災後でも、「評価される場」がないと動けない。自分を守ることに慣れすぎて、状況そのものを見ていない。結局一番早く動いたのは、社会が“心が弱い”とラベルを貼ってきた人だ。無関心には音がない。だから気づかれないまま、人を追い詰める。人は、見下している相手からの警告を受け入れない。その偏見こそ、今回の地域の本当の危機だ。本当は、みんな現実を直視する体力がなかっただけだ。災害後の静かな暴力は 無関心・制度・先入観・差別・見下し・誹謗中傷・嘲笑し、思いあがりがつくる二次被害だ。

そして、見えない役割を背負わされた人間の記録だ。

社会は助けを求める声ほど、平気で踏みにじる。冷遇の国、沈黙と制度が生む“日常的な迫害”の正体である。あなたたちの無視がつくる地獄。社会はこうして人を見捨てる。医療も教育も介護も、“理解したつもり”で“配慮した気分”だけが上滑りし、そこに居る当事者の声は聞こえる前に消されていく。

彼らは言う。

「ルールだから」「決まりだから」「データ的に問題ない」

その言葉は、心を抹消するための正当化装置でしかない。精神的に苦しむ人への偏見は、いまや社会の背景音として完全に馴染んだ。“手間がかかる人”は、制度の外で静かに壊されていく。誰も見ない。誰も助けない。誰も責任を取らない。そして最も悲劇的なのは、その沈黙が日常の空気として普通に吸い込まれていることだ。無関心という暴力は、加害者の意識を必要としない。ただ、誰も見ないだけで起きてしまう。

気づくべきなのは、この社会の冷たさは“異常”ではなく“標準仕様”という事実である。専門家は数字を振りかざし、富裕層は距離を取り、行政は紙で命を切る。結果、痛みは「心優しき、賢く弱い側」に押し付けられる。これが私の見た現実だ。

優しさを失った社会は、合法的な虐待装置になる。無関心は災害だ。善人ヅラほど動かない。偏見は災害を加速させる。優しさより先に消えたのは責任だった。沈黙の加害、声が届かない構造。災害を引き起こしたのはあなたたち、みんなです。制度の冷酷さより、住民の冷淡さのほうが深刻だった。精神的に追い詰められた人は、理解される前に、誤解される。支援につながる前に、偏見に突き落とされる。助けを求めるほど、社会は冷たくなる。

無自覚なまま心を踏みつける。その浅さこそ、あなた方最大の欠点だ。自分の行動が災害の起点になることすら理解できない。

よく覚えておきなさい。心を軽く扱う社会は、いずれ自分たちをも飲み込む。その危うさに気づけないのは、怠慢であり、犯罪だ。私は警告している。変わらないのなら、崩れるのはあなた方のほうだ。

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