「危ない」と言っただけなのに、なぜ私が悪者になるのか

 「危ない」と言っただけなのに、なぜ私が悪者になるのか


先日、横断歩道で信じられない出来事があった。

一人の子どもが、赤信号なのに渡ろうとしていた。

しかも車は近づいてきている。

反射的に私は「危ない!」と声をかけた。

普通なら、それで終わる話だと思う。

ところが隣にいた母親が、私を見てこう言った。

「渡ろうとした時は青だったんでしょ。」

正直、耳を疑った。

いや、そういう話じゃない。

私が言った「危ない」は、信号の色を論じているわけではない。

今、その瞬間、車が来ていて危険だから「危ない」と言っただけだ。

信号が青で渡り始めたとしても、途中で状況は変わることがある。

危険を知らせることに、信号の色は関係ない。

それなのに、母親は子どもの安全よりも、「自分は悪くない」と言いたかったように見えた。

もしそうだとしたら、それは子どもを守っているのではない。

自分のプライドを守っているだけだ。

さらに驚いたことがある。

信号ボタンを押す場面でも、自分で動こうとせず、こちらがやるのを当然のように待っているような態度だった。

「子どもがいるんだから、あなたがやって。」

そんな空気を感じた。

もちろん、本当にそう言ったわけではない。

でも、人に頼むなら頼むで、一言あってもいい。

危険を知らせてもらった相手に対して、感謝どころか反論。

そのうえ、自分では動かない。

正直、腹が立った。

最近感じるのは、「注意されたこと」を反省するより、「注意した相手を否定する」人が増えていることだ。

本来なら、親が子どもに言うべきことは一つ。

「危なかったね。気をつけよう。」

それだけで済む話だった。

子どもは親の背中を見て育つ。

もし親が、間違いを認めず、他人の善意まで敵視する姿を見せ続けたら、その価値観を学んでしまうかもしれない。

子どもには何の罪もない。

だからこそ、大人の振る舞いには責任がある。

「危ない」と声をかけられる社会と、「余計なことを言うな」と空気で押し返される社会。

あなたなら、どちらで子どもを育てたいだろうか。

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