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8月, 2026の投稿を表示しています

各方面へ

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今回の対応について、今後のために伝えておきたいこと 今回の出来事について、私は自分が受けた対応を非常に重く受け止めています。 私が求めているのは、特別扱いでも、過剰な配慮でもありません。今後、私に対しては、礼儀を持って丁寧かつ誠実に接していただきたいということです。 今回の対応によって、私は強い不信感を持つことになりました。このまま何もなかったことにされれば、今後の利用や関係についても、これまでと同じように考えることはできません。 一度失われた信頼を取り戻すには、それに見合った対応が必要だと思っています。今後の言動については、今回のことを踏まえて慎重に対応していただきたいです。 私は今後どのような対応をしていただけるのかを見ています。 これから私には、今回と同じ思いをさせられることのないよう、最低限の敬意と誠実さを持って接していただくことを強く求めます。

「精神疾患なら何を言ってもいい」その考え方こそ、おかしくないか

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  「精神疾患だから、何を言ってもいい」 「精神疾患だから、傷ついても仕方がない」 「精神疾患だから、怒るほうがおかしい」 「精神疾患だから、まともに扱わなくていい」 こういう考え方をする人間がいる。 しかし、少し考えれば分かる。 精神疾患になった瞬間、その人間の人権まで消滅するわけではない。 病名がついたからといって、人格が消えるわけでもない。 痛みを感じなくなるわけでもない。 侮辱されても傷つかなくなるわけでもない。 そして何より、精神疾患があるという理由だけで、他人から何を言われても黙って耐えなければならない理由など存在しない。 むしろ奇妙なのは、精神疾患のある人を散々侮辱しておきながら、その人が怒った瞬間に、 「ほら、やっぱりおかしい」 と言い出す人間だ。 これは一体、何をしているのだろう。 自分から人を傷つける。 相手が傷つく。 相手が抗議する。 そして、その抗議を「精神疾患の証拠」にする。 これでは最初から何をしても相手のせいにできてしまう。 自分の言動を検証する気が一切ない。 「自分は何を言ったのか」 「なぜ相手は傷ついたのか」 「その言葉は人権を侵害していないか」 そう考える前に、相手の病名を持ち出して片づける。 それは医学的な理解でもなければ、人間理解でもない。 単なる思考停止だ。 さらに悪質なのは、「精神疾患」という言葉を、人間を見下すための便利なラベルとして使うことだ。 気に入らない。 反論された。 怒られた。 思い通りにならない。 だから、 「病気だから」 「頭がおかしいから」 「精神疾患だから」 と決めつける。 それで自分が正しいことになったつもりになる。 しかし、それは議論に勝ったのではない。 相手を人間として扱うことを放棄しただけだ。 精神疾患のある人間にも、当然ながら尊厳がある。 嫌なものは嫌だと言っていい。 傷ついたと言っていい。 怒っていい。 差別されたと訴えていい。 助けを求めてもいい。 そして、それらをすべて「病気だから」で片づけてはいけない。 もちろん、精神疾患があるからといって、どんな言動でも正当化されるわけではない。 そこも同じだ。 問題にすべきなのは病名ではなく、具体的な言動である。 誰が相手でも同じ基準で考える。 それが最低限の公平さではないだろうか。 ところが、精神疾患のある人だけには、その最低限の公平さす...

もう、存在しないものとして暮らしたい

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蒸し暑い。 それだけでも身体は重い。 そこに、上の階の音。 隣の気配。 近所のざわつき。 もう何も考えたくない。 配慮もしない。 理解もしない。 関心も持たない。 そこに誰がいるのかも知らない。 上にもいない。 隣にもいない。 近所にもいない。 存在しない。 そう思わなければ、生活そのものが苦しくなる。 人の気配があるだけで疲れる。 何かをされるたびに、少しずつ心が削られる。 静かに暮らしたい。 安心して眠りたい。 ただ、それだけなのに、それすら難しい。 だから、私にメリットがあるもの以外は全部消す。 視界から。 意識から。 生活から。 私の世界には、最初からいなかったことにする。 もう、人のことまで背負えない。 自分のことで精いっぱい。 誰かの事情も知らない。 誰かの都合も知らない。 誰かの問題も知らない。 私には関係ない。 ただ、静かな場所がほしい。 誰にも踏み込まれない場所がほしい。 誰にも気を遣わずに息ができる場所がほしい。 それだけ。 もう限界は超えた。 誰か、気づいてほしい。 助けてほしい。 2026/08/24/20:54 ゆっくり眠り、しっかり食べよう。

静かな人。無口なのに、おしゃべりな人。見えない苦しみと、そこにある力。

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 静かな人の心の中 無口なのに、おしゃべりな人。 見えない苦しみと、そこにある力。 雑談が苦手だった人。 人と話すことが嫌いなわけではない。むしろ、人の気持ちや周囲の変化をよく見てしまう。 相手の表情。 声の変化。 その場の空気。 「今、この言葉を言って大丈夫だろうか」 「相手はどう感じるだろうか」 そんなことを考えているうちに、言葉を出すタイミングを逃してしまう。 周りから見ると、「無口な人」に見えるのかもしれない。 しかし、本当の私は違う。 心の中には、たくさんの言葉がある。 無口は、何も考えていないという意味ではない 無口な人は、誤解されることがある。 「暗い人」 「人付き合いが苦手な人」 「何を考えているか分からない人」 そう見られることもある。 でも、静かな人の中には、たくさん考えている人がいる。 言葉を慎重に選ぶ。 相手の気持ちを考える。 その場に合うかを考える。 だから簡単には口に出せない。 無口とは、空っぽなのではない。 言葉を大切にしている場合もある。 無口なのに、おしゃべりになる瞬間 「普段は静かなのに、よく話すね」 そう言われることがある。 でも、それは矛盾ではない。 安心できる相手。 好きな話題。 心を開ける場所。 そこでは、自分でも驚くほど言葉が出てくる。 好きなことを語る。 考えていることを伝える。 時間を忘れて話す。 本当は話せないのではない。 安心できる場所を探しているだけなのだ。 雑談が苦手なのは、能力不足ではない 社会では、会話が上手な人が評価されやすい。 誰とでもすぐ仲良くなる。 場を盛り上げる。 積極的に話す。 それは大切な能力だ。 しかし、人とのつながりは、それだけではない。 相手の話を聞く。 困っている人に気づく。 深く考える。 静かに支える。 それも、人をつなぐ大切な力である。 繊細な人が疲れてしまう理由 繊細な人は、周囲から多くの情報を受け取ることがある。 相手の表情。 声の調子。 職場の雰囲気。 何気ない一言。 周りが気づかない変化まで感じ取ることがある。 そのため、心が疲れてしまうこともある。 しかし、それは弱さだけではない。 人や環境を丁寧に見ている力でもある。 うつ傾向で苦しむ人へ 心と体が休息を必要としているサインの場合がある。 うつ傾向があるからといって、その人の知能や判断力や価値が下がるわけではな...