転倒
朝の路上で、老人が自転車ごと転倒した。
付き添いらしき男性はいたが、役に立っているとは言い難い。本人も含めて、二人とも状況に飲まれているだけに見えた。典型的な想定外に弱い人間の反応だと思う。
周囲には人がいた。数だけは、無駄に多い。だが機能している者はゼロ。観察者としての興味はあるが、当事者として関与する気はない。そんな空気の集合体。いわゆる「群衆」というやつだが、あれは人数が増えるほど判断力が薄まる装置らしい。
で、なぜか自分が動いている。
特別な判断をしたわけじゃない。むしろ逆で、教科書的な対応をなぞっただけだ。転倒者の意識確認、外傷のざっくりしたチェック、起き上がりの補助。足の様子から見て、軽度の捻挫の可能性はある。時間差で悪化するタイプだろう。
ここまで、全部普通のことだ。
ただ、その普通が実行されない環境だと、話が変わる。結果として、最も近くにいる「できる人間」が処理役になる。今回は、それがたまたま自分だっただけの話だ。
合理的に考えれば、関与しない選択も成立する。自分は無関係で、責任もない。実際、周囲の大半はそのロジックに従っていた。ある意味では、彼らの方が一貫しているとも言える。
それでも、自分は介入した。
理由は単純で、「できることを放置する」ほうがコストに感じるからだ。行動しないことによる違和感のほうが、行動する手間よりも大きい。だから動いただけで、別に善意がどうこうという話ではない。
ただし、その結果として何が発生するかは別問題だ。
こういうケースは、だいたい後処理がついてくる。インシデント報告、状況説明、記録。要するに、やった人間がさらにやる構造になる。効率で言えば最悪だ。
ついでに言えば、最近やたらと「サポートが必要な側」の事象に当たる気がする。子ども、身体的な問題を抱えた人、知的発達の遅れ、そして高齢者。偏りとしてはなかなか興味深いが、現場で居合わせた自分としてはたまったものでは無い。
本来なら、役割は分散されるべきだろう。だが現実には、「できる人間」に収束する。しかも本人の意思とは無関係に。
そして一番厄介なのは、その構造を理解していても、なお同じ行動を取る自分がいることだ。
無視することは可能だ。理屈も通る。だが、おそらく次も彼らはやらない。合理性よりも、自分の中の基準のほうが優先されるからだ。
面倒な仕様だと思う。