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みんなが悪い。そう言い切って何が悪いのか。

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みんなが悪い──それが現実だ。 個人の努力不足でも性格でもない。無関心で、利己的で、沈黙することで加害に加担してきたこの社会の全員が、悪い。 暗く深くうずくまり困っている人を見て「見なかったことにする」泣いている子どもに「うるさい」と言う。苦しんでいる人に「自分でなんとかしろ」と言う。制度はあるふりをして、届かないように設計されている。 「傷病者が助けを求めるには、まずあなたが健康であってください」そんな矛盾した言葉を、平気で突きつけてくる。 優しさを語る人も、社会を批判する人も、みんな同じだ。一番近くの叫びには、耳を塞ぐ。「そんなに苦しいなら死ねばいい」と言わないまでも、態度で伝える。それが一番悪質だ。 善人のふりをした臆病者 正義を語りながら沈黙する群衆 口だけの支援者 家族の顔をして責任を放棄する親たち 助けるべき立場にいて、何もしなかったあらゆる人たち 全員を赦さない。みんなが悪い。誰か1人でも、本気で寄り添っていたなら、こんなにも壊れなかった。だから、もう黙らない。 この社会の無関心や優しくなさこそが、殺しかけたのだ。

鋭く冷徹に構造を抉る「誰も助けてくれなかった」の裏側

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「誰も助けてくれなかった」 これは単なる不幸な個別事象ではない。 むしろ、それを可能にしているのは、この社会の構造そのものであり、そこに生きる私たち自身の無関心と責任の分散である。仕組み自体が、支援を受けるべき人を排除するために意図的に作られている。  責任の拡散と「誰のせいでもない」無責任の構造。誰も助けなかったのは、誰か一人の問題ではない。役所、地域社会、家族、職場、近隣…それぞれが「自分の責任ではない」と線引きをし、責任の所在を曖昧にする。それがこの社会の無責任な共犯関係を成り立たせている。その結果、助けを必要とする個人は、「誰も助けない社会」の犠牲者となる。 「助けやすい人」と「助けられない人」の冷酷な選別。社会は助けるべき対象を無意識のうちに選別する。「助けやすい人」=外見的にわかりやすい、言葉にできる、感謝する人、将来性がある人。それ以外は、助けの手から外される。この選別は個人の善意や悪意とは無関係に、制度・文化・経済の構造に根差す差別であり、無慈悲な排除の論理である。 心理的・社会的な「見て見ぬふり」の合理化。支援者側もまた被害者である。彼らは過労やストレス、自己防衛から「関わらない」という選択を合理化する。だがこの「見て見ぬふり」は、結果的に構造的な暴力を維持する行為であり、誰も責められない“正当な暴力”として機能している。 「誰も助けてくれなかった」という言葉は、 この社会の制度的欠陥、責任回避の共犯関係、無慈悲な選別構造、そして自己防衛に隠れた暴力の連鎖を暴露する鋭利な刃である。 それをただの個人の不幸と片付けることは、 社会全体が自らの無責任を許し続け、次の犠牲者を生み出すことに等しい。

光の余白に触れる

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懐かしい写真たちが、そっと呼吸していた。 カシャ、という音のない瞬間が まるで今も 私を待っていたかのように。 あのときの私は、笑えていたかな。 少しだけ無理してたような でも、それでも笑いたかったような。 写真は、ほんとうの感情を うまく映してくれない。 けれど、うつくしく景色を止め残してくれる。 切り取られた時間の中で やさしく補正された記憶のように 「たいせつ」と名づけた瞬間たちが並んでいた。 現実では見えなかった、光の揺れ。 風のにおい。 隣にいた人の、声じゃなくて体温。 あの日、気づけなかったものたちが 写真になって やっと私の胸に降りてきた。 幻想みたいな現実。 現実に似た幻。 写真はどちらでもあって、どちらでもない。 心がざわつくとき、 涙が理由をもたず流れるとき、 私はそっと一枚の写真を手に取る。 そこに、私の過去も、 癒えていない現在も、 まだ来ない未来も、静かに重なっているから。 写真は、言葉よりもやさしく 記憶よりも確かに 「生きていた証」を撫でてくれる。

無感情な正しさはただの残酷である

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人間がもし感情を完全に排除できたとしたら、社会はどう変質するだろうか。 たとえば怒りがなくなった世界。 暴力や争いは確かに減るだろう。だがそれは「怒るべきことにも怒らない」ということを意味する。 倫理の根底にある「不正への拒否反応」は、生理的な感情であり、それがなければ正義という概念は、冷たい契約書の一行に退化する。 法は効率的に整備されるが、それは「人を守るための法」ではなく「ノイズを排除する機構」として純粋機能する。結果、人権も倫理も、「効率と均整」を最適化するための道具に変質するだろう。 共感がない社会では、福祉は成立しない。誰かの苦しみに対して何かをしたいという衝動は、理性では説明できない不合理な感情から生まれる。それを切除した社会は、「能力のない者は淘汰されるべき」という機械的な自然選択思想を採用する。福祉はコストであり、非合理であり、削除される。 愛が消えることで家族制度は形骸化し、育児はデータ入力の延長になる。恋愛市場は完全なマッチングアルゴリズムによって支配され、情熱は「統計的親和性」に置き換わる。文学・芸術・宗教といった感情の表出装置は無意味とされ、文化は一様な実用性だけを残して消滅する。 全体として、社会は冷静で滑らかで、異常なまでに安定する。だがその構造は「生命体の社会」ではなく、「自動化されたシステムの模倣物」に近くなる。そこには「成長」も「変化」もなく、ただメンテナンスされる恒常状態だけが維持される。 論理が支配する社会では、感情は“誤差”として処理される。人間はエラー率を下げるアルゴリズムに組み込まれ、個性は逸脱として削除される。意思決定はAI的で、「最大多数の最大効率」に従い、少数意見は“揺らぎ”として無視される。 抽象的に言えば、感情を排除した世界とは、「変数をもたない社会関数」である。 それは動かない。揺れない。だがそれゆえに生きてもいない。なぜなら、生とは本来「不安定さ」に宿るものだからだ。 私は今日、冷静に物事を判断し、最適解を求めて行動した。だが、それが果たして「生きた日」だったかどうかは分からない。合理だけで構築された社会の中では、私の存在は単なる計算点に過ぎなかった。そしてその社会では、「意味を感じる」こと自体が、非合理として禁じられていた。

正常とは誰が裁定しうるのか。定義なき境界への論

そもそも「正常」とは何か。 それは統計的多数か。 制度的整合か。 感情的安心か。 それとも、社会的便益の名を借りた“排他”の口実か。   われわれは、常に“見えない測定軸”によって他者を裁定しようとする。 その軸は曖昧で可変的であるにもかかわらず、あたかも絶対の指標であるかのように振る舞い、 「これは正常」「それは異常」といった恣意的な二分法を作り出す。 だが、その裁定権は誰の手にあるのか? 国家か、医師か、教育か、群衆か? それとも、声の大きい者たちか? あるいは、静かに沈黙を守る側に、真の“判断不能性”が宿っているのか?   精神疾患、精神障害と呼ばれる人々が、その裁定の枠に引き寄せられるとき、 その行為は「治療」ではなく、正規分布への強制的同化に等しい。 彼らの感性、直観、知覚、沈黙、沈思黙考。それらは計測できないがゆえに無効とされ、異常という語で囲い込まれる。   だが忘れてはならない。 社会が「理解できない」ものの中にこそ、未来は潜んでいる。 過剰なる感受性、不可解なる論理、逸脱した想像力。 それらこそが、既存の秩序を撹乱し、新たな構造を切り拓いてきた。   それにもかかわらず、なぜ人は境界線を引こうとするのか。 なぜ分類し、分断し、判定しようとするのか。 その欲望は、自己の不確かさを“他者の異常性”によって補うという、 未熟で、怯えた防衛本能の変形にすぎない。   われわれは今こそ問うべきだ。 「正常」とは誰にとっての正常なのか? それを決めようとする行為自体が、実は最も“異常”ではないのか?   たとえ誰も答えを持たずとも、 問いつづけることこそが、唯一の理性の証明である。

忘れるところだった!

今日は朝から天気も良くて、なんとなく気分も軽かった。仕事終わりにカフェで新しいスイーツを試して、そのあと雑貨屋でもふらっと見て回ろうかな。なんて、ぼんやり予定を考えていた。 通知に「〇〇クリニック 17:30〜 通院」の文字。 ……え? クリニック? 一瞬、現実感が薄れた。まるで他人の予定を見てるような気がして。でも、そう。今日だった。まさに今日。しかも、あと2時間後。 遊びに行く気満々だったのに、危うく通院をすっぽかすところだった。 なぜか、通院日って生活からすぽっと抜け落ちる。 ちゃんと手帳にもスマホにも書いてるのに、楽しいことがあると、脳が「そっちのけ」にしてしまうみたいだ。 でもまあ、思い出してよかった。 忘れてたら先生にも申し訳ないし、次の予約もだいぶ先になっちゃうし。 予定変更を伝えて、カフェも雑貨屋も延期に。 気を引き締めて通院へ。いつもの先生の顔を見たら、不思議と安心した。 「ちゃんと来れてえらいよ」って言われて、ちょっと救われた気がした。 次からは、もうちょっと“遊びたい気持ち”より“自分を大事にする気持ち”を前に出そう。 そう思った火曜日の午後だった。

散歩

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 まだ世界が静かで、人の気配が希薄なうちに歩き出す。空の色はまだ眠たそうで、鳥の声だけがはっきりと目覚めていた。 川沿いの遊歩道を歩いていると、ふと視界の先に、折りたたみ椅子に腰掛けた人影が見えた。イーゼルを立て、絵筆を握っている。帽子を深くかぶり、うつむきながら黙々とスケッチブックに向き合っていた。 私は少し距離をとりながら歩きつつ、目だけでその人を観察した。描いているのはたぶん、朝靄のかかった水面。空のグラデーションをその人の背中がじっと受け止めていた。音も動きもないのに、そこだけ時間が止まっているようだった。 「生きてるなあ」と思った。描くことも、歩くことも、呼吸のように必要な営みだ。私とその絵描きの人は、まったく別の方法で、世界とつながろうとしている。 だが、時間が変わると空気ががらりと変わった。風がぬるくなり、皮膚にまとわりつくようになってきた。私は水筒の冷たい麦茶を飲み、木陰に一度立ち止まる。 「こんな日は絵を描くのも命がけだな」と思いながら、さっきの絵描きの人のことを思い出す。もし、あのまま長時間あそこに座っていたら、熱中症になってしまうのではないかと、少し心配になった。 熱中症は、じわじわと、気づかぬうちに忍び寄る。とくに集中していると、自分の身体の異変に気づくのが遅れる。私自身も、散歩中に何度かフラッとしたことがある。だから、今では歩くときに必ず水分を持ち歩くようにしている。 歩くこと、描くこと、生きること。どれも尊くて、どれも脆い。だからこそ、季節を知り、身体に耳を澄ませることが、生き方の基本になってくる。 またあの場所で絵を描く人に会えるだろうか。できるだけ涼しいうちに歩き、そして、互いに気づかぬうちにこの空間を分かち合えたらいい。 ※ご本人様から撮影許可を頂けたので、絵になる絵描きの人を載せました。