長時間移動は魂が抜ける放心
今日は朝から長距離の移動。睡眠3時間。ほとんど1日が移動で終わってしまった。電車やバスの乗り継ぎ、荷物の管理、時間との戦い。スムーズなところもあったけど、途中で接続が悪かったり、乗り換えのタイミングにヒヤヒヤしたりもした。途中、熱中症に掛かり、館内の隅で休ませてもらって再移動。具合も悪い中、専門職7社対応で口から魂が抜ける激務。
移動中は、景色をぼんやり眺めたり、ポッドキャストを聴いたりして、少しだけ心を落ち着ける時間もあったというのは嘘で、移動中は別の仕事を熟す。ただ、やはり長時間同じ姿勢でいるのは疲れる。身体の節々が少し痛む。食事のタイミングもずれて、結局この日は夜まで1食も食べないでしまって、体内リズムも乱れがち。
それでも、無事に目的地へ着けたことに感謝したい。事故もトラブルもなかったといえば嘘に成るが、捌きながら移動待機仕事、危ない目に遭いながら熟せた。
今回の6時間移動は、肉体的・精神的にかなりの負荷があった。だが、それは単なる「移動の時間」として切り捨てるのではなく、「自分と向き合う時間」「無になる時間」と捉えることで、少しだけ意味のある時間に変えることができたように思う。
長距離移動は、現代社会における“余白”とも言える。何もできない時間、制限される時間に、普段無意識に感じている焦りやストレスが浮き彫りになることがある。今回も、「なんでこんなに時間を無駄にしているんだろう」と思った瞬間があった。でも、逆に「何もしない贅沢」として味わおうと考えると、不思議と気持ちが軽くなった。
移動の多い仕事や生活が続く場合、この“心の持ちよう”がとても大切だと思う。例えば、移動を通して新しい景色を見たり、自分の内面に気づいたり、小さな発見をしたりすることもできる。その積み重ねが、意外と心の栄養になっているのかもしれない。