可哀想という名の沈黙 ─ 無関心が制度化された社会で

この国では、「可哀想」という言葉が最も便利に使われている。
同情を装いながら、責任を放棄できる。
悲劇を前に、関与しないための免罪符。

誰かが倒れても、群衆は見ているだけだ。
カメラを向ける。通り過ぎる。
そして言う。「可哀想に」
それで全てが済む。

その瞬間、痛みは“他人事”へ変換される。
感じたはずの共感は、記号に変わる。
悲しみは、共有ではなく消費の対象になる。

「可哀想」と言う側は、優しさを自覚している。
だが実際は、優越の言葉だ。
「あなたは下にいる」「私は上から見ている」
その見えない線が、社会のあらゆる場所に引かれている。

哀れみは救済ではない。
哀れみは、秩序を保つための支配の言語だ。

多くの人は、何もしない。
溜息をつく。視線を逸らす。
沈黙する。
それは悪意ではなく、防衛だ。
「自分には関係ない」と思い込むことで、
この構造の中で生き延びるための、自己保存。

しかし、その無関心が積み重なって、
社会の温度は確実に下がっていく。
気づかないうちに、誰も助けなくなる。
誰も、助けられなくなる。

怒りはある。
だが、もはや爆発するほどの熱はない。
この冷えた社会では、怒りすら冷却されていく。
それでも、言葉を残すことには意味がある。

「可哀想」と言って終わらせる社会は、
いずれ自分自身をも「可哀想」と呼ぶことになる。

そのとき、人間の感情は完全に麻痺する。
それでも、誰かが観測し、記録していなければ、
社会はゆっくりと自壊していく。

この文章は、救いを求めてはいない。
ただ、事実を淡々と並べているだけだ。
「誰も助けない社会」を、正確に描写しているにすぎない。

もしこれを読んで何かを感じたなら、
それは、まだ人間が機能している証拠だ。
感じなくなったとき、
本当の終わりが始まる。


補足
観察の記録であり、社会の診断である。
暴力・攻撃・否定を煽る意図は一切ない。
沈黙の中に潜む構造的無関心を可視化する試みである。





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