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11月, 2025の投稿を表示しています

少しずつ、軽くなる日

午後の柔らかい光が、机の上に差し込む。パソコンの前に座り、指をそっと置く。 3年近くだろうか。YouTube に積み重ねた動画は、400 本近くになっていた。どれも派手ではなく、自分自身は一つも写っていないが200回〜5,000回以上のも上げた途端に回る再生数。朝のコーヒーを淹れながら思いついたこと、散歩の途中でふと感じたこと、眠れない夜や朝に静かに上げていた動画。日々の生活の小さな息づかいが、映像に刻まれていた。 静かに決めた。 「もう手放してもいいかな」と。 それらは消えたけれど、まるで息を吐くように、やわらかく、静かに解けていく。すべて消し終えた画面は、真っ白で広い。そこに感じるのは、寂しさではなく、深呼吸できる余白。窓から入る光の温度と、部屋の静けさが、ちょうど心の中の空間と重なる。 そして数日後。 また少しだけ動画をアップロードし始めた。まだ数は少ない。でもそれでいい。 コーヒーを淹れるときの香りに気づくように、窓の外の風に手を伸ばすように、 必要な分だけ、必要なタイミングで、少しずつ。 手放したからこそ、余白ができた。 余白ができたからこそ、また小さな光が置ける。アップロード完了の通知がそっと光る。その光は、生活の中にある小さな息づかいのように、「ゆっくりでいいよ」と教えてくれる。 終わりではなく、日々を取り戻す、静かで優しく、温かな再生。ブログのYouTubeリンクが途切れているのは、そういう事情で恐縮です。たまには、過去のを上げるかもしれない。それは、どこに上げるかは分からないけど、過去は至る所に優しく散りばめらている。

小動物と目が合う

  帰りに、アパートの前を通りすがったときのこと。 「ドンッ!」という音がして、思わず振り向いた。 見ると、通りすがりのアパートのドアに小動物が正面衝突していた。 アライグマ? たぬき? その中間みたいなふわふわ生物。 一瞬ぐらっとして、こっちを見上げてきた。 目が合う。 「えっ、見られた?」みたいな顔。 こっちも「いや、こっちもびっくりだよ」って顔。 3秒ほどの沈黙のあと、その子は慌てて道路へ猛ダッシュ! しっぽをぶんぶん振りながら、斜めにジグザグに逃げていった。 交通ルールとか気にしないタイプらしい。 ほんの一瞬の出来事だったけど、クスッと笑った瞬間だった

弱さが演じられる社会 ― 不審という名の構造

Ⅰ.序論:不審の風景 駅前の通りで、杖を突く男性がゆっくりと歩いていた。 彼は「譲られる側」であることを知っており、その歩みに一種の誇りが宿っていた。 周囲の人々は自然に道を空ける。 だがその表情には、どこか「支配する弱さ」があった。 少し離れた場所では、若い学生がスマートフォンを掲げ、ライブ配信をしていた。 画面の向こうには視聴者がいる。 だがその視線は、現実の他者を無視して進む。 映り込む通行人、背景として消費される街。 さらに奥では、高齢の親子が言い争っていた。 「もう帰るって言ったでしょ」「あんたが黙って歩くから!」 通行人は見ぬふりをしながら、心のどこかで「不審な光景だ」と呟く。 しかし本当に不審なのは誰なのか。 奇妙に見えるのは、人ではなく、社会のまなざしそのものではないだろうか。 --- Ⅱ.弱者性の転化 ― 「譲られる権利」の社会心理 足の悪い人の強引さは、単なる頑固さではない。 それは、長く「譲られる側」として生きてきた経験の裏返しである。 社会が弱者に向ける優しさは、時に「受け身の役割」を強制する。 その構造が続くと、人は無意識のうちに「譲られることを当然」と感じ、 他者に譲らせる側へと立場を反転させる。 エルヴィング・ゴフマン(1963)が指摘したように、 スティグマ(烙印)を負う者は、それを「管理」するために、 社会的役割の演技を学習する。 弱者が“強さ”を演じるのは、社会に生かされるための戦略でもある。 それは道徳的批判ではなく、構造的必然として理解されるべきだ。 --- Ⅲ.配信社会と可視化の暴力 現代の街は、カメラによって分断されている。 配信者は、公共空間を「私的な舞台」として再構成し、 他者の存在を「映像素材」として扱う。 ここではもはや、「公共」と「私的」の区別は崩壊している。 ショシャナ・ズボフ(2019)の言う「監視資本主義」の時代、 人々の行動はデータ化され、可視性が価値に変わる。 その構造の中で、若者たちは「見られること」で存在を確かめ、 他人を映すことで自己の現実感を保とうとする。 それは一種の可視化の暴力であり、 他者の匿名性を奪うと同時に、配信者自身も「視線の檻」に閉じ込めていく。 --- Ⅳ.高齢者・親子・日常の演出化 後期高齢者や親子の衝突もまた、同じ構造の中にある。 声を荒げる行為は、怒りの発露ではなく、 「無...