鋭く冷徹に構造を抉る「誰も助けてくれなかった」の裏側


「誰も助けてくれなかった」
これは単なる不幸な個別事象ではない。
むしろ、それを可能にしているのは、この社会の構造そのものであり、そこに生きる私たち自身の無関心と責任の分散である。仕組み自体が、支援を受けるべき人を排除するために意図的に作られている。

 責任の拡散と「誰のせいでもない」無責任の構造。誰も助けなかったのは、誰か一人の問題ではない。役所、地域社会、家族、職場、近隣…それぞれが「自分の責任ではない」と線引きをし、責任の所在を曖昧にする。それがこの社会の無責任な共犯関係を成り立たせている。その結果、助けを必要とする個人は、「誰も助けない社会」の犠牲者となる。

「助けやすい人」と「助けられない人」の冷酷な選別。社会は助けるべき対象を無意識のうちに選別する。「助けやすい人」=外見的にわかりやすい、言葉にできる、感謝する人、将来性がある人。それ以外は、助けの手から外される。この選別は個人の善意や悪意とは無関係に、制度・文化・経済の構造に根差す差別であり、無慈悲な排除の論理である。

心理的・社会的な「見て見ぬふり」の合理化。支援者側もまた被害者である。彼らは過労やストレス、自己防衛から「関わらない」という選択を合理化する。だがこの「見て見ぬふり」は、結果的に構造的な暴力を維持する行為であり、誰も責められない“正当な暴力”として機能している。

「誰も助けてくれなかった」という言葉は、
この社会の制度的欠陥、責任回避の共犯関係、無慈悲な選別構造、そして自己防衛に隠れた暴力の連鎖を暴露する鋭利な刃である。

それをただの個人の不幸と片付けることは、
社会全体が自らの無責任を許し続け、次の犠牲者を生み出すことに等しい。



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