無感情な正しさはただの残酷である

人間がもし感情を完全に排除できたとしたら、社会はどう変質するだろうか。

たとえば怒りがなくなった世界。

暴力や争いは確かに減るだろう。だがそれは「怒るべきことにも怒らない」ということを意味する。

倫理の根底にある「不正への拒否反応」は、生理的な感情であり、それがなければ正義という概念は、冷たい契約書の一行に退化する。

法は効率的に整備されるが、それは「人を守るための法」ではなく「ノイズを排除する機構」として純粋機能する。結果、人権も倫理も、「効率と均整」を最適化するための道具に変質するだろう。

共感がない社会では、福祉は成立しない。誰かの苦しみに対して何かをしたいという衝動は、理性では説明できない不合理な感情から生まれる。それを切除した社会は、「能力のない者は淘汰されるべき」という機械的な自然選択思想を採用する。福祉はコストであり、非合理であり、削除される。

愛が消えることで家族制度は形骸化し、育児はデータ入力の延長になる。恋愛市場は完全なマッチングアルゴリズムによって支配され、情熱は「統計的親和性」に置き換わる。文学・芸術・宗教といった感情の表出装置は無意味とされ、文化は一様な実用性だけを残して消滅する。

全体として、社会は冷静で滑らかで、異常なまでに安定する。だがその構造は「生命体の社会」ではなく、「自動化されたシステムの模倣物」に近くなる。そこには「成長」も「変化」もなく、ただメンテナンスされる恒常状態だけが維持される。

論理が支配する社会では、感情は“誤差”として処理される。人間はエラー率を下げるアルゴリズムに組み込まれ、個性は逸脱として削除される。意思決定はAI的で、「最大多数の最大効率」に従い、少数意見は“揺らぎ”として無視される。

抽象的に言えば、感情を排除した世界とは、「変数をもたない社会関数」である。

それは動かない。揺れない。だがそれゆえに生きてもいない。なぜなら、生とは本来「不安定さ」に宿るものだからだ。

私は今日、冷静に物事を判断し、最適解を求めて行動した。だが、それが果たして「生きた日」だったかどうかは分からない。合理だけで構築された社会の中では、私の存在は単なる計算点に過ぎなかった。そしてその社会では、「意味を感じる」こと自体が、非合理として禁じられていた。




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