少年法はその意図とは裏腹に、子供の暴力を「未熟さ」の名の下に矮小化

 

冷房のない部屋でぼんやりとニュースを見ている。虐待死、いじめ自殺、加害児童による暴行。繰り返される「子ども」に関する事件と、それに続くテンプレート的な非難と擁護。どれも核心には触れていないように思える。

そもそも、私たちは“子ども”という存在をどこに置いているのか。

医療現場で、学校で、福祉で、政治で。

子どもは、精神障害者よりも、身体障害者よりも、知的障害者よりも、さらには難病患者、高齢者、生活保護受給者よりも、制度的に下位にある。

「意思能力がない」「保護されるべき」「未成熟」そう言って彼らの声は制度に記録されず、意見が軽視され、社会参加は名目だけ。


つまり、子どもは、社会構造上の最底辺に位置づけられている。


それは“無力”であるからではない。

“法的主体として認められていない”からであり、

“経済的価値を生まない存在”として見なされているからだ。


精神障害者には形骸化した支援制度はある。法の狭間に常に曝され、自力救済を求められる。全てを乗り越えてきた潜在能力があり、サポートする新法も出来つつある。

身体障害者(内部障害者)、知的障害者には戦中戦後の名残で現行にそぐわない古臭い支援制度・補助具・制度・インフラ・社会的認知度がある。

高齢者、年金生活者には最低限のインフラがある。

だが、子どもには「権利」が与えられていない。義務と管理の対象としてしか存在しない。

加害児童に対しても、それは明白だ。彼らの行動は病理として扱われ、背景にある社会的要因は無視される。「未熟な加害者」として社会から排除され、同時に「責任を問えない存在」として放置される。

これは一種の社会的な廃棄の構造である。教育、家庭、メディアが一体となって、子どもを“安全に消費”し、“自己責任”で黙らせる装置になっている。彼らが何かを訴えたところで、大人の道徳的枠組みに収まらない限り「聞く価値なし」とされる。その意味で、子どもは差別と無視を受けている社会的マイノリティとも言える。


制度・認知・保護と支配の境界線として。

精神障害者:人権の議論がある。投票権もあり、治癒の見込みがある者として審査と弁護士がつく。また、生まれつきが少なく納税者で労働者には普通にいる上、特にうつ病者や繊細な気質には秀才や天才なども多くいるため対応出来るより高度な人間性の人員、金銭的に未整備。

身体障害者:段差や移動手段に対する社会的配慮が進んでいる。配慮過剰であり、入学、勤務に置いても小学生並に容易く優遇差別を受け、後期高齢者並に配慮され、犯罪隠ぺいも容易くされ粗暴、粗野、作為的身体障害者もいる。

知的障害者:成年後見制度や福祉作業所など“保護と参加”の形が明確。

後期高齢者・年金受給者:投票権を持ち、政治的にも影響力を持つ。世情により働いたことの無い主婦や年金を支払ったこともない者もいる世代で貧富の差が激しい。

子ども:「選挙権もない」「選択の自由」や「拒否権」も制限とされる。

子どもらは未来の担い手ではない。現在の社会的“リスク”であり、管理の対象だ。それゆえに、彼らが暴力暴言を振るえば、「育て方が悪い」「親の責任」「学校の管理不足」で済まされる。そこには、子ども自身を一人の“社会的主体”として見る視点が決定的に欠けている。

子どもを「最底辺の市民」として明確に位置づけ直し、親権の構造見直しと家庭内での“所有”としての子育てから、社会全体での支援とモニタリングへ。障害者と同等の福祉アクセス権を子どもに教育・医療・生活保障において制限を撤廃。

子どもは、保護されているのではなく、管理されている。権利を持たず、義務を課され、異常を示せば“矯正”される。この社会における“弱者”の最下層であり「まだ声を持たない存在」に他ならない。制度的には無効化している。

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