夜明けになってしまった リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ - 6月 07, 2025 インターネットをつけるとまたニュース関連。もううんざりだと思った。気晴らしに夜中になってしまったが、散歩をして夜空を見上げていたいなとおもったら、交通事故があったようで誰もいない自然を眺めて帰ることができずに疲労してしまった。事件事故というのは見ているだけで無関係でも疲れてしまう。それに絡められてなんとなく自分ごとにさせようと恐怖心を植え付けてくるような内容の放送は迷惑でしかないし、心理的にも肉体的にも想像以上に辟易する。イメージ写真は冬の時のもの リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
“見るだけの人”から抜け出す:受動消費から能動選択へ - 6月 16, 2025 インターネットが生活に深く根付いた今、自分自身がどのように情報と接し、時間を使っているのかを改めて見直す必要を感じている。 SNSやニュースサイトに加え、ここ数年で特に影響力を増してきたのが動画配信プラットフォームだ。YouTube、Netflix、Twitchなど、無限に近いコンテンツの選択肢が存在し、「何もしなくても時間が埋まる」仕組みが整っている。 1. 時間感覚の麻痺と能動性の低下 配信サイトは、視聴を止める明確な区切りがない設計(自動再生、アルゴリズムによる無限の推薦)になっていることが多く、「観終える」という感覚が曖昧だ。その結果、目的のないまま次々と動画を視聴し、何時間も経過していることがある。これは自発性の低下にもつながりやすい。 2. 情報消費から知的吸収への転換の困難さ 動画は情報の受け取り方としては受動的であり、自分の思考を働かせる余地が少ない。もちろん、学習用のコンテンツもあるが、それらでさえ「見た気になる」だけで終わってしまうことがある。“知った”と“理解した”の間にある深い思考プロセスが省略されやすい。 3. エスケープ手段としての依存性 精神的に疲れた時、現実から逃れるように配信サイトを開いてしまうことがある。それ自体が悪いわけではないが、無自覚に繰り返すと「現実逃避」のパターンが定着し、問題に向き合う力が弱くなる。 対策:配信サイトとの関係性を意識的に選ぶ このような課題に対して、自分なりの向き合い方を以下のように再構築したい。 視聴に目的を持つ:単なる暇つぶしではなく、「なぜ観るのか」「観た後にどう活かすのか」を意識する。 使用目的の明確化:ネットを使う際は、「何のために」「どのくらいの時間使うか」を事前に決める。 タイマー管理:視聴時間に上限を設け、終了時間をあらかじめ決めておく(例:1日1時間、夜8時以降は視聴しない) “能動的視聴”の姿勢を育てる:インプットだけでなく、メモを取ったり、感想を書いたりすることで情報を定着させる。 オフラインの代替習慣を作る:本を読む、手を動かす趣味を取り入れるなど、動画視聴以外で気分転換できる手段を確保する。 インターネットも配信サイトも、否応なく私たちの時間と注意力を奪いに来る。そのことを前提として、「自分が何を選び、何を拒否するのか」という判断の主体を、常に自分の側に取... 続きを読む
ササラ電車 - 3月 26, 2025 初音ミク仕様のササラ電車に乗ってきました。 アナウンスから広告外装まで初音ミク仕様です。 2025/03/23で初音ミク仕様のササラ電車は運行が終わりましたが、とても楽しく一周させていただきました。 続きを読む
親切の境界線は、思ったより遠かった - 6月 20, 2025 偶然ひとつの小さな「事件」に遭遇した。 自転車ごと転倒した子供。誰もいない歩道。友達の姿もなく、親の影も見えない。痛そうにうずくまりながらも泣かないその姿は、むしろ妙に社会的だった。泣くことすら、自己責任のように見えた。 私はしばらく立ち尽くしていた。声をかけるべきか、かけざるべきか。それは一見、倫理の問題に見えて、実際は法とリスクの問題だった。 現代の公共空間における「関与」は、もはや法的曖昧性に包まれた行為である。 たとえば、「不審者情報」 善意で声をかけた人間も、その一報で「不審者」とラベリングされる可能性を孕む。法律そのものがそれを罰しているわけではないが、運用と感情がそれを罰するのだ。 私は知っている。児童福祉法も、刑法も、軽犯罪法も、声をかけること自体を禁じてはいない。だが、通報社会の文化的圧力は、法の外にある恐怖を現前化する。何度となく、その圧力と阻害を受けたからよく分かる恐怖心。 子供に「大丈夫ですか」と声をかけていた。同時にその瞬間、私は無意識に周囲を確認していた。カメラがないか、誰かがこちらを見ていないか、この行動が"記録"されていないか。それはまるで、魔女が薬草を拾うような慎重さだった。 子供は、最初、うまく受け取れなかったようだ。しばらく無言で頷きだけをみせて、怪我をしたパニックで更にうろついた後、こちらに助けを求める表情と空気感を発した。その瞬間を逃さなかった。もう一度だけ恐る恐る、だけど真っすぐに子どもに顔を向けて発した。「大丈夫?」と聞くと子どもは「大丈夫」と言った。だがその言葉は、強がりと見知らぬ大人の他者との接触を拒否する教育の結果に思えた。 教育とは何か?それは本来、他者とどう関わるかを学ぶプロセスであるはずだ。けれど今の教育の多くは、「どう他人を避けるか」「どうリスクを最小限に抑えるか」に傾いている。防犯教育は哲学的に言えば、他者不信の訓練になってしまっている。 私は最低限の介入として、「泥がついているから水で洗った方がいいよ」と言った。それだけでみるみる近づいてきて、子供の顔は、ようやく柔らかく、泣きそうになった。人間的な反応がそこに戻ってきたのだ。私は小さく微笑み、右の頬を撫で指しながら「右の頬に転んだときの泥が付いているから、そこの水道で洗い流したほうがいいよ。」と言った。傷の手... 続きを読む