春なのか春ではないのか

 まだ雪が山に残っている。

朝にはまだ暖房を炊いているときがあり、春というにはまだまだという感覚。

感情のままに書きなぐりたいなと思うときがあるが、最近の動向として世の中が不安定で変わらないものがあることが少なく、安定的な人や理性的な人が極端に少なくなったように感じる。突出する感情は骨身を切ることもある。私は冷めていき、叙情的な要素を隅に追いやっていくのをひしひしと感じる。棘が刺さったような世の中で私達は何を考えればいいのだろう。茨の道で私達にはなにが出来るだろうと、考えたときに、ふと『私達』ではなく『私』という一人称に置き換えたときに何が出来るだろうと考えると『怖さ』という感情が湧いて来る。人間は小さなカテゴライズの中で『私達』と括らなければ個人単体では恐怖や不安を感じてしまう生き物なのだろう。

『個』の時代に『集団』への帰属意識を求めて安心しようとする。人間としては自然なことだけれども、『個』としては確立されていない。

理性や利他というのは一人称では取り扱えないのだろうか。『なんらかの集団』がいない状態での『個』は無力なのだろうか。そうではないのだけど、感情がなんらかの集団の増幅増減に支配されるのだろうか。

なぜ全体または其々に偏りがあるのだろうか。

そんなどうでもいいことを起き抜けに世界の違和感を感じながら、朝起きたての寝ぼけた個に返して、つらつらと考えて起き上がった。

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