夏の思い出

懐かしい子供の頃。世界遺産や自然との交流。
竹の壮観に天を突く伸びと靭やかさの群生の中で空を観ていた。誰もいない原生林と鍾乳洞が遊び場で日本一深い湖で手漕ぎボートをよく漕いだ。転覆して通りすがりの船舶用ボートで救出された。火山口の湖と山の頂上付近で土砂災害に遭い山小屋の管理人の無線で倒木で道路封鎖を聞き許可され山小屋泊。

小さな頃、祖父は海外に戦後行き外交を深めて家を護り、絵画を描き、祖母は着物で囲炉裏を護り、私達子供の帰りを待ち、タイミングを図りお茶やお菓子を出して待っていてくれた。

母は茶室で整えられた空間で四季を感じさせて茶釜や器や食器を揃え、子供の私に鹿威しが時計の代わりになる和の部屋で茶を大人に振る舞うようマナーから手順からルールを学ばせ、大人の前で着物を着て演舞させてくれた。

近くには数学教員の校長の親戚がいて、私は校内に親戚がいる事を伏せるよう先に言われていた。通知表は担任からではなく、親戚の校長が毎回持ってきて評価とアドバイスを頂いてもチャラっとして鬼瓦権蔵のような数学教員とご飯を食べ、東京の院率研究員なる兄と自営業のピアノ講師を土日に付けられた。

父は趣味で現像室、写真室、オーディオルームを作り、休みは自分の時間を充実させていた。父のキャンピングカーには1千万をかけて内部には二段ベッドや調理台、シャンデリア、食事台、パソコンスペースなどが搭載されてたまに、自宅のキャンピングカーで生活していた。

私は小1で子供専用部屋を与えられた。他の兄弟も同じく別の子供専用部屋を与えられた。そこから、ある程度自立に向けた心理的距離と親子感情の混乱を防ぐのを保たれ、家族との距離感や家族会議や個々の個性やプライベート空間を確保出来るようになっていた。

小1から親離れ、子離れを練習させていたのだ。自分の部屋にはある程度の責任が伴う。

今、両親は高齢者だ。身体も心も現役時代とはまるで変わった。現役当時、両親は日本国民全体の上位4%内の成績優秀者で祖父母は東京出身で東京の中心部の地主かつ公務から農地改革で国に土地を上げて両親が結婚出産時前後に疎開を決め、家を建て健康体でも戦中戦後は家政婦が付いていたボンボンだった。

実際には私は見ていないから分からないが、世界の激動期、戦後の目まぐるしく変わる環境の変化、外圧から国からの要請に応えざるを選ない心労と喪失と再建は大多数の他国民には理解され難い集団圧力があったのにも関わらず優秀者になり、子供たちを育て上げていた。私からは信じられないかもしれないし、信じ難かったけれどもそれは当時の現状の家庭環境だった。

今で言う富裕層の優秀者の家系も世襲や国の争いや外圧に巻き込まれると、本人らの責任に関わらず国民の上位4%で残りの国民の96%を救わなくてはならなくなるのは覚悟した方が良いのかもしれない。

自らの子供が窮しても、全国民へ分配したのだ。それが、日本です。責めているわけでも、悲観しているわけでもない。当然、当時の残り90%以上の子や孫はそれをしなければならない。今の裕福層たちも、それはせざるを選ない。近い未来に。


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