正常とは誰が裁定しうるのか。定義なき境界への論
そもそも「正常」とは何か。
それは統計的多数か。 制度的整合か。 感情的安心か。 それとも、社会的便益の名を借りた“排他”の口実か。
われわれは、常に“見えない測定軸”によって他者を裁定しようとする。 その軸は曖昧で可変的であるにもかかわらず、あたかも絶対の指標であるかのように振る舞い、 「これは正常」「それは異常」といった恣意的な二分法を作り出す。
だが、その裁定権は誰の手にあるのか? 国家か、医師か、教育か、群衆か? それとも、声の大きい者たちか? あるいは、静かに沈黙を守る側に、真の“判断不能性”が宿っているのか?
精神疾患、精神障害と呼ばれる人々が、その裁定の枠に引き寄せられるとき、 その行為は「治療」ではなく、正規分布への強制的同化に等しい。 彼らの感性、直観、知覚、沈黙、沈思黙考。それらは計測できないがゆえに無効とされ、異常という語で囲い込まれる。
だが忘れてはならない。 社会が「理解できない」ものの中にこそ、未来は潜んでいる。 過剰なる感受性、不可解なる論理、逸脱した想像力。 それらこそが、既存の秩序を撹乱し、新たな構造を切り拓いてきた。
それにもかかわらず、なぜ人は境界線を引こうとするのか。 なぜ分類し、分断し、判定しようとするのか。
その欲望は、自己の不確かさを“他者の異常性”によって補うという、 未熟で、怯えた防衛本能の変形にすぎない。
われわれは今こそ問うべきだ。 「正常」とは誰にとっての正常なのか? それを決めようとする行為自体が、実は最も“異常”ではないのか?
たとえ誰も答えを持たずとも、 問いつづけることこそが、唯一の理性の証明である。