散歩

 まだ世界が静かで、人の気配が希薄なうちに歩き出す。空の色はまだ眠たそうで、鳥の声だけがはっきりと目覚めていた。

川沿いの遊歩道を歩いていると、ふと視界の先に、折りたたみ椅子に腰掛けた人影が見えた。イーゼルを立て、絵筆を握っている。帽子を深くかぶり、うつむきながら黙々とスケッチブックに向き合っていた。

私は少し距離をとりながら歩きつつ、目だけでその人を観察した。描いているのはたぶん、朝靄のかかった水面。空のグラデーションをその人の背中がじっと受け止めていた。音も動きもないのに、そこだけ時間が止まっているようだった。

「生きてるなあ」と思った。描くことも、歩くことも、呼吸のように必要な営みだ。私とその絵描きの人は、まったく別の方法で、世界とつながろうとしている。

だが、時間が変わると空気ががらりと変わった。風がぬるくなり、皮膚にまとわりつくようになってきた。私は水筒の冷たい麦茶を飲み、木陰に一度立ち止まる。

「こんな日は絵を描くのも命がけだな」と思いながら、さっきの絵描きの人のことを思い出す。もし、あのまま長時間あそこに座っていたら、熱中症になってしまうのではないかと、少し心配になった。

熱中症は、じわじわと、気づかぬうちに忍び寄る。とくに集中していると、自分の身体の異変に気づくのが遅れる。私自身も、散歩中に何度かフラッとしたことがある。だから、今では歩くときに必ず水分を持ち歩くようにしている。

歩くこと、描くこと、生きること。どれも尊くて、どれも脆い。だからこそ、季節を知り、身体に耳を澄ませることが、生き方の基本になってくる。

またあの場所で絵を描く人に会えるだろうか。できるだけ涼しいうちに歩き、そして、互いに気づかぬうちにこの空間を分かち合えたらいい。


※ご本人様から撮影許可を頂けたので、絵になる絵描きの人を載せました。


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